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生前の人生に問われるのは、肉体的に何を体験したかではなく、霊的なレベルで何を学んだかです。『I<わたし>真実と主観性』P295

上記のタイトルは、真実度999の『I<わたし>真実と主観性』P295から抜粋しました、懲りずに真理郎です。

光に還る時には、三途の川を通るとか、審判・質問を受けるとか、いろんな情報があると思いますが、上記のタイトルは真実度999.5と、測定してあります。

このタイトルが書いてある14章全体が真実度999.5となっているので、このタイトル自体は、真実度1000かもしれません。

僕ら人間は、主観でとらえるので、霊的なレベルという言葉の捉え方もさまざまですので、コンテクスト(文脈/状況)を少しでも合わせてみたいと思います。

『I<わたし>真実と主観性』の本には、コンテント(内容/中身)と、コンテクスト(文脈/状況)という言葉がたくさん出てきます。

コンテント(内容/中身)と、コンテクスト(文脈/状況)は、最初、さっぱり分からなかったので、それも踏まえて、説明してみたいと思います。

目次は英語で「table of contents」なので、本や記事のタイトルもそうですが、焦点を”これ”とした、それが、コンテント(内容/中身)の感じです。

例えば、その本や記事のタイトルを、たくさんの文脈で表すことになるのですが、それが、コンテクスト(文脈/状況)です。

『愛』『真理』・・・世の中にはたくさんのコンテント(内容/中身)があるけれども、そのコンテクスト(文脈/状況)は、その人の主観で変わってくるわけです。

これは、とてもざっくりとした入り口の説明で、実際に本にはこう書かれています。

恣意的(しいてき)と出てくるので、意味を書いておきます。

恣意的 読み方:しいてき

恣意的とは、個人の意志や感情に基づいて行動する様子を表す言葉である。この言葉は、主観的な判断や自由な解釈が行われる状況を示す際に用いられる。恣意的な行動や判断は、一般的には法律や規則、公平性を無視したものとされ、社会的な評価は低い傾向にある。しかし、芸術や創作活動の領域では、恣意的な表現が新たな価値を生み出す場合もある。恣意的な行動は、個々の自由や創造性を重視する一方で、公共の秩序や他者の権利を侵害する可能性も含んでいる。

「恣意的」とは、「気ままで自分勝手に振る舞うさま」もしくは「必然的とはいえない行動を取る」という意味で用いられる表現である。本来的には「場当たり的な」「好き勝手する」という意味の言葉であり、「作為的」「意図的」という意味の使い方は誤用とされる。いずれにしてもネガティブなニュアンスで用いられやすい表現である。

weblio辞書

Q:「コンテント(内容/中身)とコンテクスト(文脈/状況)」の意味と、このふたつの関係を教えてください。

A:これは、きわめて重要な質問であり、真理へと続く戸口のまさに核心に迫るものです。このふたつは、恣意的ですが、視点を表す大変重要な言葉であり、超越するまでは有益なものです。

コンテントは恣意的な焦点であり、そこに含まれるデータや形の総量を指します。コンテクストは、コンテント以外のすべての全体性を指し、それは暗示された、あるいは特定の範囲であったり、神や宇宙全体のように、まったく限定がなかったりします。

たとえば、あなたが特定の星を選んだとします(「A」星)。するとそれ以外の銀河系や進化の歴史を含めた天空全体がコンテクストとなり、観察者もそれに含まれます。次に別の星が観察対象となれば(「B」星)、「A」星は「B」星のコンテクスト全体の中に含まれます。したがって、コンテントとコンテクストは個々に区別されるもの、あるいは固有の性質ではなく、観察者の意識を反映しているにすぎません。

つまり「線形」や「非線形」という言葉も、思考の分類であり、知的解釈の焦点にすぎません。形はその基底として無形を含んでいるので、互いは分離していません。意識はどんなときにも等しく存在していますが、気づきによって登録される情報は焦点の影響を受けます。

超越的な状態では、すべては継続的です名称や表示は単に見かけ上のものであり、本来は何ものも分離してはいません。すべては自明的で、おのずと光り輝いており、それを適切に言葉で描写することはできません。「シヴァのダンス」は経験であり、概念ではありません。

通常の意識状態では、自我/自己の”わたし”がコンテントであり、意識/気づき/神/「本当の自己」がコンテクストです。暗黙のコンテクストはたいてい、目に見えるコンテントよりも結果に対して大きな影響力を持っています。

「I<わたし>真実と主観性」P76

最後の文章の部分の、通常の意識状態を、般若心経に照らし合わせてみると、色即是空の、色しきがコンテントであり、空くうがコンテクストの捉え方でいいのではないかと、懲りずに真理郎さんの見解です。

それは、巻末資料の付録D量子力学P520にこう書いてあります。

量子物理学者はコンテントの専門家で、神秘家はコンテクストの専門家だと言えます。そしてその間にあるのが、まさに線形から非線形へ、自我から霊(スピリット)へ、「~について知る」から「真実そのものになることで知る」への飛躍です。

自我を滅することで自我との同一化を超越するという霊的修練の目的は、パラダイムの限界を解消するための変容を促すことにあります。自己(自我)の知が、制限されたコンテントから無限のコンテクストに移り、存在そのものの源、すなわち無限の<本当のわたし>の根源的な主観性を実現することによって、冒険は完結します。

「I<わたし>真実と主観性」P520

量子物理学者は実体のあるものを解明しようとし、神秘家とは、覚醒(悟り)前の段階の人たちで、実体のないものを得意としています。

般若心経は、覚醒(悟り)のための智慧の教えであり、実体のないものの表現が含まれています。照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく)五蘊(ごうん)が皆(みな)空であることがわかったので、一切の苦しみを解決された。とあります。

五蘊(ごうん)とは、色しき・受じゅ・想そう・行ぎょう・識しきの五つで、五感に近い、実体があるものに捉われる、執着する機能を含んで指しているような感じがします。

空くうは、実体のないものを指し、無や非存在と混同してはならないそうです。

Q:究極の真理は、「虚きょ」と同じですか?

A:「虚」という言葉は誤解を生み、何世紀もの間、人々を誤った方向に導いてきました。それはあたかも、何もない状態、非存在を思わせるのですが、「真実」においてはそれはあり得ないことです。神と逆のものなやど存在しません。そして、「真理」だけが、実際に存在しています。「虚」とは、形や実体がないことや非二元性を表しているのですが、わたしたちはたびたびそれを非存在(存在そのものがないこと)と混同してしまいます。「究極の十全性」を無/虚と勘違いすることによって、そもそも存在しないものの存在を証明しようとする誤りに陥ってしまうのです。

Q:仏教の教えの中には、究極の真理を「虚」であると述べているものもありますが。

A:この点においても、キネシオロジーテストは真価を発揮します。形を持たない「非顕在」を無(nothingness)や非存在と混同すべきではありません。「nothing(ない)」という単語は文字通り、「nothing(物ではない)」という意味で、形がないこと(非顕在、仏教でいう「アナッター」)を表しています。それは精神活動も含む、あらゆる形がない状態ですから、逆にすべてでもあるわけです。ここに一種のパラドックスが成り立ちます。同じように、もしあなたがどこにもいないのなら(空間のどこにも位置しないならば)、あなたはどこにでもいるのです。そしてあなたが時間の制限を受けないならば、あなたは永遠です。あらゆる形、時間、空間の制限がないものはすべて、どこにでもいて、存在するものすべてであることは明らかです。(全知、全能、偏在)。そして「ブッダの本質」は、「非顕在」です。

「I<わたし>真実と主観性」P175-176
人類生命学~真理の共通言語~

人間には、2つ心があるそうです。人間の心(マインド)は、真偽を見分けることができないそうです。

動物脳(本能)=自我(エゴ)の特質は執着だそうです。五蘊(ごうん)は、肉体に持っている五感の機能であり、その五蘊(ごうん)に無意識に執着するような機能をもっているのが、僕ら人間だと思います。

動物脳(本能)=自我(エゴ)という”それ”を自分だと思い、同一化した時に初めて問題が生じるそうです。

人類生命学の生まれ持った真理のお話と繋げてみると、五蘊(ごうん)を使った、動物脳(本能)=自我(エゴ)の意識/無意識の感覚を自分だと思い、同一化してはじめて問題が生じます。と置き換えていいのではと思います。

五蘊(ごうん)を使った意識/無意識の感覚が実体があり、とてもリアルなのだけど、そもそも分離をしておらず、すべてのものと繋がっているということを、霊的レベルを学んでいって体験できれば、五蘊(ごうん)も、空くうであることがわかり、怖れがなくなるということではないでしょうか。

霊的レベルで何を学んだかというのは、このような実体のない話、真理・愛を思い出そうとすることも、大事な一つの要素だと思います。

「I<わたし>真実と主観性」の本で示している道は、「非二元性への献身」を表す神秘家の道です。と書かれてます。P57

けん‐しん【献身】 の解説
[名](スル)
1 他人やある物事のために、わが身を犠牲にして尽くすこと。「国家の発展に—する」

2 キリスト教で、神のために、生涯をささげること。

goo辞書

形や実体がないことや非二元性、空くうを、学ぶには、「I<わたし>真実と主観性」は、稀に見る、通常の知性で把握できる神学です。この情報のみで大丈夫と言っても、過言ではないでしょう。

500ページの本の内容は、結構、膨大です。そこからの気づきは、素晴らしいものです。繰り返し繰り返し読んだり、聴いたりすることで、気づきが生まれます。

全ての人が、活用できるように、きょんきょんが朗読を進めてくれています。9月からスタートして、現在、約1/2まで来ました。感謝。

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今回が144記事目となります。12×12=144。マヤ暦KIN144は、ひさちゃんKIN117 の鏡の向こうです。数霊(かずたま)では、やまびこ144、たまげる144、でした。



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