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「名言との対話」1月22日。常磐新平「本というのは未知の世界 南極に行くのは冒険だが本を読むこともひとつの大きな冒険じゃないか」

常盤 新平(ときわ しんぺい、1931年昭和6年〉3月1日 - 2013年平成25年〉1月22日)は、日本作家翻訳家であり、アメリカ文化研究者である。享年81。

岩手県出身。仙台で育つ。早稲田大学文学部英文科を卒業し大学院に進む。サラリーマンになりたくなかった。一生翻訳の仕事をしていたかった。28才で小さな出版社に入早川書房に入社。海外の文学作品、スパイ小説、冒険小説などを紹介する「ハヤカワ・ノベルズ」を創刊し、人気シリーズとなる。早川書房のSF以外のすべての編集長の立場となる。1969年に退社。翻訳家としてアメリカの雑誌や人物を紹介した。エッセイスト、作家としても知られるようになる。

ウォーターゲート事件を取材した新聞記者の手記『大統領の陰謀』、マフィアを移民の集団という弱者の側から描いた『汝の父を敬え』など、ジャーナリズムから現代アメリカ文学まで幅広く翻訳した。

1986年、『遠いアメリカ』で直木賞を受賞した。アメリカのペーパーバックを読み漁り、夢と現実の間で悩みながら翻訳の勉強に没頭する自身の大学院生活を描いた自伝的作品である。東京空は晴れているが自分のところだけは雨が降っている、という若き日のひがみ根性が30年近い年月で昇華されて自分を客観的にみることができるようになって書いた作品である。

常盤新平が私淑した師匠は5歳年上の直木賞作家・山口瞳であった。サラリーマンの生態や心理をよく知った山口瞳の31年1614回続いた「週刊新潮」の連載『男性自身』を、たまたま読んだのがきっかけで出入りするようになった。山口瞳の13回忌を迎える頃書いた『国立の先生山口瞳を読もう』には、国立に住む師匠の山口瞳への思いがつまっている。文庫本や全集に書いた解説をまとめたものである。

常盤新平は「臆病になるな、他人の目や陰口にとらわれず、自分のやりたいことに忠実になろう」と言う。他人の目、他人の口、つまり世間を気にしずぎることをやめて、自分自身の為すべきことを為そう、自分を励ましている。

常盤新平『おとなの流儀』(マガジンハウス)を読了。『ダカーポ』に連載した「僕の恥さらしな日記」をまとめたエッセイ集だ。常盤新平植草甚一の後継者といわれた雑学の大家でもあった。「別れ話」「酒場」「競馬」「煙草」「卒業式」「翻訳」「鞄」「衣替え」「夫婦」「歳末」「正月」、、、などのエッセイが並んでいる。

「僕は酒を飲んでいたのではなく、酒に飲まれていた」「僕はアメリカの雑誌や本を読んで、知ったかぶりをしていたにすぎない」「(酒を飲むということは)人を知り、人の世を知り、己を知ることではないか」「僕が考えるのはせいぜい身のまわりのきおとである。平凡なことがらである」。ロサンゼルス・ドジャースラソーダ監督は、新人・野茂英雄をの志を買い、包容力をもって宝物のように扱っていた。和田芳恵『一葉の日記』。河盛好蔵『河岸の古本屋』。福原麟太郎『チャールズ・ラム伝』。、、、

常盤新平山口瞳池波正太郎を読むようになって、繰り返し読むことに愉しみを知った。この本のなかで、師匠とも呼ぶべきその3人の作家の話題がよく出てくる。

山口瞳について。酒のみの名人。この人の本や「男性自身」というエッセイで文章の修行をした。『新入社員諸君!』は愛読書だった。

藤沢周平について。『用心棒日月抄』。『市塵』。『蝉しぐれ』。『三屋清左衛門残日録』。いずれも奥床しい諦めを描いているとしている。

池波正太郎について。実際に聞いた短いスピーチは千金の重みがあった。年に何度か山の上ホテルに滞在する人。そこで画を描く、映画の試写をみたり、床屋に行く。12月には京都で遊ぶ。暮れは山の上ホテルで過ごす。実によく映画を見ている。『私が生まれた日』の「京都・南座界隈」はいい。

3人ともコーヒーが好きだったそうだ。山口瞳と国立の「書簡集」という喫茶店でコーヒーを一緒に飲んでいる。この店には私も訪ねている。池波正太郎には神田神保町の喫茶店でコーヒーをごちそうになっている。藤沢周平には駅まで20分ほど歩き、コーヒーを飲み、本屋に寄るという習慣があった。

NHKアーカイブス・あの人に会いたい」をみた。アメリカのことがほとんど知られていなかった時代に、持ち前の「好奇心」と「冒険心」で、自身の歩むべき道を歩んだ。人と話をすることが苦手で、1冊3ヶ月人と話をしなくてすむ翻訳を選んだ。常盤新平にとって、南極に行くのと同様に読書も冒険だったのである。

参考:常盤新平『おとなの流儀』(マガジンハウス)

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