「名言との対話」10月9日。水原秋桜子「俳句は抒情詩である」「瀧落ちて群青世界とどろけり」
水原 秋桜子(旧字表記:水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年(明治25年)10月9日 - 1981年(昭和56年)7月17日)は、日本の俳人・医師。享年88。
東京神田出身。一高、東京帝大医学部卒業後、昭和医学専門学校(現昭和大学)初代産婦人科教授。家業の病院を継ぐ。宮内省侍医寮御用係として皇族の出産を担当。
俳句に関心を抱き、高浜虚子の「ホトトギス」に投稿を始める。また短歌は窪田空穂に師事する。高浜虚子の指導を受けて東大俳句会を再興。句誌「馬酔木」主宰者となる。
後に虚子の客観写生論を自然模倣主義と批判し、主観写生論を展開し、新興俳句運動の流れをつくった。1955年から医業をやめ俳句に専念。1962年、俳人協会会長。1966年、日本芸術院会員。
雑誌『俳句』2021年7月号の特集「没後40年 水原秋櫻子の「現在」」を読んだ。
根岸善雄によれば秋桜子の生涯は7期にわけられる。
第1期「渋柿」時代 鰡はねて河面暗し蚊喰鳥
第2期「ホトトギス」時代
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 うつし世に浄土の椿咲くすがた
第3期「馬酔木」時代
人騒ぎ摩利支天岳に雷おこる 慈悲心鳥ひびきて鳴けば霧きたる
第4期「八王子時代」
冬菊のまとふはおのがひかりのみ 瀧落ちて群青世界とどろけり
第6期「俳人協会会長時代」
獅子独活や旅愁きびしき海の色 籠かばふ鬼灯市の宵の雨
第7期「晩年」
余生なほなすことあらむ冬苺 初筑波利根越えてより隠れなし
死処は我家とひとり思へり島総松 手のひらのわづかな日さへ菊日和
秋桜子は短歌の世界をのぞいたことで、「調べ」を身に着けた。そのためもあろうが、虚子の「客観写生」に不満を持つ。花鳥風月の描写だけでは詠んだときの心の躍動は消えているのではないか。短歌の師・窪田空穂「歌は調べなり」と教えてくれたのだ。調べの中に主観を遂げるのだ。万葉調のゆったりした調べである。
秋桜子は「俳句は抒情詩である」と考えて、「ホトトギス」のくびきを脱した。そして身近な自然以外にも、山容など大きな自然も題材として、明るい絵画的な句をつくった。叙景句である。景色に美を宿らせる、抒情的な詠み方である。
代表句は2つ。
「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」。これは写生句ではない。「おのがひかり」とは、自分自身の心象風景である。風景ではなく、イメージである。
「瀧落ちて群青世界とどろけり」。瀧の水がとどろく。その群青の世界をしみじみと味わっている自分がいる。瀧と自分が一体となっている情景が目に浮かぶ名句だ。
私は俳句については「写生」を重んじる「ホトトギス」の流れを意識して来た。短歌では同じ主張の「アララギ」以外にも「七七」に情感をこめる派なども知っている。俳句にも抒情による革新運動があったのである。水原秋桜子のファンになった。
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