「名言との対話」(戦後編) 1月2日。檀一雄「お前たちの前途が、どうぞ多難でありますように、、。多難であればあるほど、実りは大きいのだから」
檀 一雄(だん かずお、1912年(明治45年)2月3日 - 1976年(昭和51年)1月2日)は、日本の小説家、作詞家。
少年期に母が若い学生と出奔、その傷心が文学への原点となるが、一方で料理を覚えた。福岡高等学校を経て東大経済学部在学中の処女作が認められ佐藤春夫に師事する。「日本浪曼派」に加わるも、従軍と中国放浪の約十年間を沈黙。1950年、『リツ子・その愛』『リツ子・その死』を上梓して文壇に復帰。律子は最初の妻。1951年、『真説石川五右衛門』で直木賞受賞。死の前年まで20年にわたって書き継がれた『火宅の人』により、没後、読売文学賞と日本文学大賞の両賞受賞。遺作『火宅の人』は映画化されている。
2006年の夏、博多湾に浮かぶ能古島を訪ねたことがある。そのとき、「檀一雄の家」という案内板を偶然見かけて興味を抱いて見に行った。山の中腹にある一軒の廃屋がそれだった。この家の庭からは、船着場と博多湾を挟んだ対岸の百地の海岸の建物が遠望できて気持ちがいい。その時、こういうところに別荘でも持つと幸せだろうなあと思った。この家のことを書いた、長女の檀ふみの『父の縁側、私の書斎』という文庫のエッセイを偶然見かけて読んだ。その冒頭に「能古島の家 月壺洞」という短い素敵な文章で紹介されている。『火宅の人』の著者である父・檀一雄は、気ままでわがままな人で「新しい環境を、その都度自分の流儀で埋め尽くし、埋め終わると同時に別の天地に遁走したくなる」と本人が書いているように、この家も短い期間しか住んでいない。檀ふみは、一度だけ父の住むこの家で語り合ったことがあるそうだ。
代表作『火宅の人』は、「女たち、酒、とめどもない放浪、、、たとえわが身は「火宅」にあろうとも、天然の旅情に忠実に生きたいーー豪放なる魂の記録!」との解説がある。この本は入院中のベッドで口述筆記で書き上げられた。この本がベストセラになったことは本人は知らない。
どうしてこの家を「檀一雄記念館」にしないのかなあと思っていたら、このやはり地元からも要望があり福岡市に寄贈しようかとも考えたらしいが、「いつか能古島に、月の光がいっぱい入るような家を建てよう。大きな窓にもたれて、父の好きだった音楽を聴きながら、静かにお酒を飲もう。そのとき、きっと父は私のかたわらにいる。なんだかそんな気がしてならない」という結びの文章にあたった。
檀ふみは、女優、タレントなどの顔で登場したが、NHK「日曜美術館」の司会で着物を着た姿で全国の美術館の名画を紹介する姿を見かけるように、美人でありながら多彩な才能と親しみやすい人柄で人気が高い。ふみの名言は「人生を豊かにするのは、お金でも物でもない。幸せな瞬間の記憶である」だ。「バリアフル」「風呂と日本人」「屋根裏から」「おこたの間」「理想の書斎」「イヌ小屋?ウサギ小屋?」「スープのぬれない距離」「こころの縁側」「春を忘るな」「あたりはずれ」、、、。「名画の見つけかた」などの家にまつわるエッセイのテーマの選び方でもわかるように、ふみは観察眼が鋭く、かつ暖かく、そして素晴らしく文章がうまい。この人の本籍は物書きではないだろうか。
今回、以前読んだことをすっかり忘れていた。気がつかずに2回目の読了した。娘からみた父の姿を記してみよう。「父はときどき様子を見にやってくるだけの「お客さん」だったのである」「酒はいいぞぉ。大きくなったら、ぜひ飲みなさい」「普請好き。手仕事が好き。台所用品、食器の類が好き。旅にも料理セットを持参.」「食事中のテレビは厳禁。嵐をはらんでいる人」「線のような母。ボッタボタッと墨汁でも垂らしてたようなあんばいの人の父」「雅号は、奇放亭。ドン・キホーテをもじった」、、、。丸谷才一が食べ物に関する傑作を挙げている。邱永漢『食は広州にあり』、木下謙次郎「美味求真」、吉田健一「舌鼓ところどころ」「私の食物誌」、そして檀一雄「漂流クッキング」である。料理の腕も相当なものだったようだ。
自ら多難な人生を選び取った檀一雄は、息子や娘たちに「多難」であることを祈っている。無事な人生はつまらない。難事が多いほど、成果は大きくなる。多難であれ、は逆説的に聞こえるが、子どもたちの成長を願った、最後の無頼派作家・檀一雄の愛情だったのだろう。長女のふみは女優、長男の太郎はエッセイスト、次女の寿美はイラストレーターとなっている。それぞれ多難な人生をたくましく乗り切っていきつつあるのだろう。