「名言との対話」12月30日。大砲万右エ門「横綱は負けていけない」
大砲 万右エ門(おおづつ まんえもん、1869年12月30日(明治2年11月28日) - 1918年(大正7年)5月27日)は、 大相撲力士。第18代横綱。
宮城県白石市出身。体が大きく力が強いという評判の少年だった。俵2俵をかつい8キロの道を歩いた怪童だった。1884年に尾車部屋に入門。1888年に「大砲」と名乗る。1892年、新十両(年間報酬が十両だった)。1899年大関となり、無敗のまま横綱免許を得る。この時、「止め名」である「谷風梶之助」の襲名をすすめられるが固辞している。同郷の宮城県出身の63連勝の谷風は事実上の初代横綱である。止め名とは、二度と使われないことになっている四股名である。双葉山、白鵬も止め名である。大鵬、北の湖、貴乃花は一代年寄となっているが、止め名と同列の扱いとされている。大砲という四股名は天覧相撲で台車に乗った大砲を担ぎ上げて驚かしたことことからついた。
それまでの史上最高の194センチという身長の大砲は、相撲黄金時代を小錦八十吉と築いた。大砲は1902年から1年半、陸軍の志願兵となり、1908年に引退し年寄・待乳山を襲名した。48歳で没。
ユーチューブの動画「負けない横綱 大砲万右エ門」をみた。師匠の雷親方(第15代横綱・梅ケ谷)から「横綱は負けてはいけない」といわれ、不器用であった大砲は受け型の相撲をとるようになった。土俵中央で攻めないで動かないので、「引き分け」が多く、「分け綱」の異名もある。横綱時代も半分ほどは引き分けという珍しい力士だった。師匠のいうごとく、負けない横綱になったのである。
頭もよく、人柄も立派だった大砲は、長谷川伸が書いた戯曲『一本刀土俵入り』のモデルになった。親方に破門されたふんどし担ぎの駒形茂兵衛が金子(きんす)を恵まれた酌婦のお蔦に立派な関取になると誓って別れる、その10年後に博打打ちとなった茂兵衛が、お蔦たちを逃がすために棒切れを振り回す。「しがねえ姿の、土俵入りでござんす」で幕となる。歌舞伎、新国劇などで数多く取り上げられた。テレビの「てなもんや三度笠」でもこの茂兵衛の役がついた役者がいたことを思いだした。当時の人はみなこの「一本刀土俵入り」を知っていたのだろう。
「負けない横綱」「分け綱」は、常陸山にも負けなかったが、平幕にも勝ちきれないという不思議なり力士だった。通算成績は98勝29敗51分け138休みで、勝利率は7割7分2厘だった。17年32場所で296回の取り組みという計算になる。因みに大鵬は87場所で872勝182敗136休。貴乃花は90場所で794勝262敗201休だった。
「一年を十日で暮らすよい男」というような句があった気がするが、大砲の時代は本当にそれに近かったのだ。