「名言との対話」7月20日。鶴見俊輔「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ」
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。享年93。
政治家の父・鶴見祐輔と後藤新平の娘の母との間に、長男として2番目に生まれた。姉は社会学者の鶴見和子。11歳で不良。自殺未遂。精神病院入院。家出。父の計らいで渡米。ハーバード大に入学。結核。逮捕。
帰国後は海軍勤務、腹膜炎で辞職。戦後、雑誌『思想の科学』の創刊に参加。桑原武夫から見込まれて京大人文研助教授に就任。東京工大助教授を経て、同志社大学教授。小田実を代表にベ平連を結成する。大学紛争で辞職。九条の会の呼びかけ人。
こうやって鶴見の人生行路を眺めてみると、感受性と正義感が強く、生きにくい人だったのだろうと感じる。
都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる鶴見の名前は私は知っていたが、本を読んだことはなかった。たまたま鶴見俊輔編『老いの生き方』(ちくま文庫)を読んだ。中勘助、富士正晴、金子光晴、室生犀星、幸田文、串田孫一、野上弥生子らの論考が並んでおり、「経験は、人生を狭くする」「老年の空虚さは、実人生の場から離れた、補給不足による」などが印象に残った。
当時75歳の鶴見は冒頭の「未知の領域に向かって」という総括の小論を書いてる。この中で「潔癖な人は、幸福になることはできない」という処世術を披露している。理論をかざす教条主義を排し、毎日の一コマ一コマに興味をもち、日常生活の中で浮かんだ疑問を突きつめていくという生き方を貫いた人だ。
鶴見は潔癖さの欺瞞を見抜いており、矛盾に満ちた人間という存在に愛情を持って接した人だと思う。論壇で活躍した人であり批判も多く受けたが、自分の頭で考え、自分の言葉で語った人であることは間違いない。
鶴見俊輔・上坂冬子『対論・異色昭和史』を読んだ。憲法九条はたわごとという上坂と「九条の会」を立ち上げた鶴見の興味深い対談集である。二人は「思想の科学」でつながっていた。
(教育勅語には)諫争、つまり諫めること、臣下には諫争の義務があるということが抜け落ちているんです。
父は自分が総理になりたいから伊藤博文の幼名の俊輔とつけた。父の遺言を読むと、軍部を抑えて戦争を止める気持ちだったが、二・二六事件以降は軍国主義に反対しなくなったとし、「ああいう連中」と批判し縁を切っている。
この本の中で鶴見俊輔は「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ」と語っている。反対陣営の上坂冬子の思想も樹木の成長のようだと評価している。知識人というのはケミカルコンビネーション、人間力に支えられていないから信用できない。勉強した色々な思想を混ぜ合わせているに過ぎないとして信用していない。
実体験から自分自身をつくりあげた人が持つ人間力というしっかりした幹が、時間の経過とともに天空に伸び、枝を張り、その先に葉を伸ばし花を咲かせる。土台がしっかりしているから少々のことではびくともしない。そういう人は信用できる。「思想」を科学した鶴見俊輔の人間観である。