国語教育を哲学する

私はこれまで、国語教育を哲学したいと考えてきた。私がしたい哲学は、難解な学術用語を使う哲学ではなく、可能な限り日常の言葉を使って、できる限りわかりやすく説く哲学である。そして生活に役立つ哲学である。それがやっと本になった。私の近著『国語を楽しむ』である。
その原稿を書きながら、ぜひ読んでもらいたいと思っていたお一人が、哲学者ティー先生であった。そして、ご本人から、読後感を私的に頂戴することができた。許可を得て、その一部を紹介する。ティー先生は次のように書いてくれた。

①「国語科は、言葉を学ぶ場であると同時に言葉が運ぶ世界を学ぶ場でもある」(2頁、132頁)について
【ティー先生】意識を有する世界内存在としての人間存在にとって言葉は特別な意味をもっています。意識は言葉を離れては存在しえません。むろん人間とって無意識界の意義が重要なことはもちろんですが、無意識は意識との関連があればこそ無「意識」と了解されます。こうしたことを考えれば国語科が「言葉を学ぶ場」であると同時に「言葉が運ぶ世界を学ぶ場」であるというご指摘に共感します。だから国語科は「総合科目」でもあるのですね。

②「私が「同時異学習」の導入を唱えるのは、学級の全員が平等に、同じ内容、同じ方法、同じ進度で授業が進まなければならないという固定観念から解放されようと呼びかけるためである」(19頁)
「そこで、忘れてはならない大事なことがある。それは、教師である自分の目が、自分の価値観を強く反映し、自分の価値観にとらわれた偏った目でしかないということである。自分とは異なる多様な価値観があるということを、教師は忘れてはならない。その謙虚さを忘れたとたんに、その教師は、自分の価値観に合わないものを排除する、傲慢で、偏狭で、非寛容な教師になってしまう」(33頁)
「教師が目指すのは、結果の見栄えではなく、活動を経験する過程で生まれる子どもの学びと育ちでなければならない」(66頁)
の3箇所について
【ティー先生】上に引用したところ(他にもありますが)に、先生の国語教育の「哲学」を読み取ることができるように思います。教師の支配的な雰囲気が解かれ、子ども一人ひとりが尊重され、主体的な学びが保障される国語科、一言で言えば正しい意味での「民主主義教育」としての国語科ということでしょうか。ボルノウの 「教育的雰囲気」という概念とも重なるように思います。これは道徳教育にとっても大事なことです。
蛇足ながら私の「楽しくなかった」国語の体験について一言。私は国語が好きでなかった、特に詩を扱った単元が一番嫌だった。なぜ?それは詩について私が感じ取ったことが、先生が示す模範解答といつも異なっていたからです。先生流の国語科だったらきっと「楽しい国語」だっただろうなぁ。

③「もう一つ付け加えなければならない大切なことがある。それは、読まない自由である。(中略)読まない自由がある場でこそ人は、読むことを本当に楽しむことができるのである」(73頁)。について
【ティー先生】読まない自由も主体的で民主的な学びとって大切だということですが、大いに共感します。
体験的な蛇足話をもう一つ。私は高校を卒業するまでほとんど本を読みませんでした。いま振り返ると、きっと「国語」が楽しくなかったから、読まない自由を行使していたように思います。
学校的な縛りから解放され大学生になって、堰を切ったように本を読み漁りました。特に1年、2年の頃はまいにち小説を読みまくりました。古典的名作から少し(大いに?)エロチックなものまでいろいろなジャンルのものを読みました。いま思うと一番楽しかった本との付き合いです。大学後半からは哲学の本が中心になりました。これは必ずしも「楽しい」読書ではありませんでしたが。あれから50年、本は私の生活の一部です。これもあの「自由」のおかげでしょうか。

以上がティー先生から頂戴した書評の一部である。深く感謝申し上げる。
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