『彼岸の図書館』をよんで
誰かの思考をのぞく、というスタイルの読書が好きだ。本のタイトルから読みたい、と思ったわけではなく、先日木之本でお話した青木真兵さんの本だから手に取った。
奈良県の東吉野村で、人文系図書館『ルチャリブロ』を開いている人。川を渡らねば辿り着けない場所にある、現世とは違う原理で成り立つ、彼岸の図書館。その考えにどうしようもなく惹かれた。そのことを話す青木さんの柔らかくもどっしりとしたあり方にもピンと来たのだと思う。久しぶりに読書がたのしかった。青木さんの声で再生される文章が心地よかった。
この本を読んだいま、「あぁ、わたしはこれをやりたかったのだ」というあたたかい感覚がある。
「これ」とはなんなのか、忘れないうちに書き留めておきたい。
ひとつは、「私設図書館をひらく」ということだ。自宅をひらき、自分の蔵書を置く。
この考えをもったとき、真っ先に蒸の母屋と軒先、川と橋が浮かんだ。旧五箇村、いまは鯖留?の空き家でできたら、なんといいだろう。
下界(大きい通りから登ってくるのであえてそう言わせてもらう)と、なんとなく空気が違う、澄んでいて、凛としているのに優しい。
夏は暑いけど、風がすーっと通り抜けて気持ちいいし、冬はなんたって寒い!雪もたくさん積もる。まだ経験していないけど、しんしんと降って、あたりは静かになるのだろう。つんと突き刺すような寒さと、はりつめた空気。想像しただけで、にやけてしまう。夜は空を見上げると、いーっぱいの星の数々(これが満天かと思った)、天の川が見える。視界の端には、家のふちと木のかげ。あの構図がたまらなく好きだ。月並みだけど、わたしは小さい、自然は美しく、なんだか怖い、と身体で感じることができる。あそこにいると、急ぐ気持ちがふっと軽くなる。サウナがあるからだろうか、鎧がひとつ、ふたつと脱げていくような感覚すらある。
わたしは、どちらかというと海が好きだ。ひらけていて、夢がある。大きなものに抱かれているような安心感もある。でも、旧五箇村にいってから、山と人の営みが共存している山村も大好きになった。人間は自然と一緒に生きていたのだ。
まあ、とにかく旧五箇村で「私設図書館」をひらきたい。
でもなぜ図書館なのだろう。わたしにとっての図書館とは、どんなものなのだろう。
図書館での思い出を振り返ってみることにする。
小中とほとんどが不登校だった。高校も教室が苦手で、あまりいた覚えがない。
小中の頃は、青少年教育センターに週2,3通っていた。教育センターでおしゃべりしたり、ゲームしたりしたあと、決まって市の図書館に寄っていた。
伊勢原市立図書館。隣に科学博物館?とプラネタリウムがある大きい図書館だ。入り口をはいってすぐ文芸本、奥に専門書、2階に児童書がある。(書いていて、今でもありありと覚えていることに感動する。)図書館内をぐるっと一周し、お目当ての文芸コーナへ。当時読んでいたのは、ミステリー小説ばかり。たまに子どもの貧困、女性の権利、教育機会がない世界の人々についての本を読んでいた。わたしの図書館体験はここから始まる。
高校では、学校にいる時間のほとんどを図書室で過ごしていた。わたしにとってのアジール。聖域である。
司書室でご飯を食べたり、ラミネートのお手伝いをしたり。授業中の人が少ない時間は、奥の大型本や古典が並ぶ棚の前で、座って世界の遺跡集を眺めた。
年間貸出数は250冊ほど。学年で一番多かったらしく、図書館だよりに載ったことがある。もちろん全部読んでいたわけではない。
図書室は全世界への入り口であり、案内所だった。遺跡集を読んでいるときは、世界を旅している気持ちになったし、古典を読んでいたときは、タイムスリップしたような感覚になった。本屋大賞を受賞した新しい本が棚に並ぶと、次はどれを読もう、どんな世界が待っているのだろうか、とワクワクした。
今でも一番好きな図書館は、高校の図書室である。
大学時代は、ありがたいことに早稲田の図書館にアクセスできた。古く立派な建物。各分野の専門書がこれでもか、というくらいあった。
特に好きだったは、地下にある古い図書が保管してある場所。独特のにおい。読むわけじゃないのに、よく行っていた。
「図書館は異世界へのゲートである」
先日、木之本(滋賀県長浜市)で内田樹先生がこう話していた。
今ここ、にいながら、世界のいろんな人の考えや事象に触れられる。物語を通して、自分とは全く別の人になりきれる。
木之本にある江北図書館は、いまでも昭和初期〜中期の本が残っている。建物も築80年だ。実際立ち入ってみると、たしかに、これは異世界の入り口だと思った。
そして「知性を呼び起こす場」でもあるそうだ。
知性とは、自分が無知であることを知っていること。自分はまだまだだと自覚し、自己変容をはかる。それができる人が知性を持っているのだ。わかった気になってるのは、知性的ではない。
図書館の膨大な蔵書を前にしたとき、自分がまだまだであることを思い知る。今まで読んだ本、読みたいと思っている本、これから読める本なんて、蔵書のほんの1%だ。それ以外の99%は、今までもこれからも読まないまま、人は生涯を終える。この事実を身体で感じたとき、人間は知性的な生き物になる。
この話を聞いたとき、これまで図書館で体験してきたことが、ぶわーっと頭のなかに溢れた。わかる、そうだよね、わかる。
わたしにとって、図書館はずーっと、今ここでない場所に連れ出してくれる存在だった。わたしにとって、図書館は居場所だった。
蔵書のうち、読める本が1%しかない。それはなんて素敵なことだろう。世の中は、まだわたしが知らないこと、知るよしもないことばかりで溢れている!
だからわたしは図書館が好きだ。
ありがとう図書館、これからもよろしくね、図書館。
この図書館経験をもとに、わたしのためのわたしによる図書館を作りたい。
異世界と現世をつなぐ場所。わたしが図書館にもらったものを、わたしの手で、わたしなりに表現してみたい。
手先が不器用なわたしにとって「つくる」ことは遠い存在だったが、図書館をひらくことによって、「つくる」ことができるのではないか。
あぁ、なんて素敵なことだろう。
ふたつ目に、「資本主義の論理から離れたあり方を実践する」ことだ。
「ルチャリブロ」は無料で利用できる。青木さんはビジネスにして、お金を得ようとしていない。
小さいころから、いわゆる社会的弱者であったため、たくさん助けてもらってきた。大人になったら、恩返しをしていきたい。もらったものを次の人たちに渡したい。
だが、それはお金にならない。生活が安定しないと、人に何かを渡す元気がないから、お金が必要だ。
しかも、周りはバリバリ稼ぐ人たちばかり。会うといかにより良い地位につくか、とか、稼ぐことのばかり。
あれやこれやあって、株式会社で働くようになった。楽しかったが、会社の論理では救えない人たちがいることを目の当たりにした。
あと、ビジネスは面白いから、お金稼ぎは刺激的だから、やり過ぎちゃうよね、とわたしは思っている。ゲームに近い感覚だ。やりすぎて何度も体調を崩してきた。
資本主義は便利だ。お金という共通する基準をもって、「商品」を交換する。いまや衣食住に関わるすべてのものが「商品」であるため、お金が必要だ。生きるために稼ぐ必要がある。
※もちろんお金は悪いものではないと思う。
お金があることで、今まで届かなかったものにもアクセスできる。
どんな人でもお金があれば、ほしいものが手に入る。お金ができたことで急速に世界は発展した。
では逆にお金を持っていなかったら?と問いが立つ。
独立しようとしている今、目下の悩みはお金稼ぎである。
お金を稼ごうと思ったら、地域で何かやるより、都市圏の仕事を受ける方がいい。車のローンもあるし、将来のためにお金は必要だと思う。
そうして、ふと手元をみたら、都市圏の仕事ばかり。しかも心からわくわくするものが少ない。ええー。
なんのための引っ越し、独立なのだろう。
これでは何も変わらないではないか。
そんなときに、青木さんの在り方を知った。
あぁ、経済的な豊かさと本人の幸福はイコールではない、と当たり前のことを実感した。
わたしにもできるのではないか。
資本主義的な論理から外れて、つながりと助け合いの世界で生きてみたい。
合理ではなく、感情を大事にする生き方を実験してみたい。
今までの違和感が、ふつふつと言葉になってきたように思う。
「私設図書館」を自分のためにつくる、そしてひらく、
そんな生き方のなかで実験していこうと思う。
むすびに
わたしにとって、文章を書くことは心地いいことではない。
よっこらしょ、と重い腰をあげ、じっくり時間を取らないと書くことができない。
書いている時間も、特段楽しいわけではない。
果たしてこれは伝わるのか、論理的に変なこと、間違ったことを言っていないか、とずーっと頭が回っている。
しかし、この文章を書くことは、そんなにつらいものではなかった。
わたしの中にあるものを、丁寧に引っ張りだして、これだ!という言葉を当てはめる。尊い時間だった。
もちろん上手く書けなくて、大丈夫か?と思う瞬間は少なくないが…
まだまだ納得いくものにはならない。
まぁ、今のわたしにできることはここまで。
そんなことを積み重ねていけばいいのかもしれない。