【復刻】ひるますは如何にして哲学者となったか?の巻
復刻シリーズ第二弾
【2005年03月05日】
そう思っている人はほとんどいないのが難点だが、わたくし、ひるますは、前回紹介した『オムレット』の著者であることからも明らかなように、実は「哲学者」なのであ〜る。だからなんだということではないのだが、今回はこれをネタに、ちと書いておきたい。
まずそもそも哲学者とはなんなのか?、人は大学の哲学教授やいわゆる思想・評論家を哲学者と思うようだが、これは「哲学者」ではない。これを言う人はけっこういて、哲学という学問をやっている学者を「哲学学者」などとバカにしていうのは、以前からあることだ。バカにして、というが、そういう「職」を得るのはナカナカに大変なことで、哲学の周辺にたゆたう者たちにとっては憧れのマトではあろう。また、文化の伝承という側面からも、自分で哲学する人ではなく、哲学について勉強する人、という一群の存在は不可欠ともいえる。
これになるには、外国語(英独仏)はもちろん、ギリシャ・ラテンの古典語にも通じてなくてはならないので、たいへんなのである。ついでに言えば、大学の哲学科はそういう哲学教師を養成するところであって、自分で哲学する、ための場所ではないのだが、そんな当たり前のことに入ってみて気付いたバカ者のひとりが私である。しかし、とすれば、どこにいようと、自分で哲学するということはできるわけで、ただそれをするかどうか、という問題になる。はい、それまでよ、と。しかし、ほんとの問題はそっから先にある。
●哲学は病気なのか?
つまり、では自分で自分なりに哲学してりゃ「哲学者」なのか?ということだ。これも哲学学上は、いろいろと議論があるのだろうが、わかりやすいところでいうと、数年前に「哲学は病気なのか」論争というものがあった。これは私の嫌いな(笑)中島義道氏の言い出したことなのだが、ようするに「自分はなぜいるのか?」などいわゆる哲学的ギモンを考えることを「病」として、それに取り付かれた自分(中島氏)を自虐的に語ったもの。ようするにエッセイなのであって、まともに「議論」することではないのだが、当時の私の掲示板などではけっこうやりとりがあった。私の中島批判(「臨場哲学25号」参照)に噛みついてくる中島ファンというのが多かったのだ。哲学が病気であってもかまわないのだが、哲学が病気というこの言い方だと、別に哲学の「内容」はどうでもかまわなくて、単にそういうことを考えたり、そういう疑問にとりつかれることが「哲学」だということになってしまう。ようするに内容ではなく、「態度」とか「嗜好」の問題となるわけだ。
奇妙なことに、中島氏自身、かつての著書で「日本にはほんとうの哲学者はいない、哲学学者ばかりなり」という議論を展開していたのだが、もしそういう態度や嗜好をもった「だけ」の人が哲学者(中島的には「哲学病者」だが)であれば、ほんとうの哲学者の方がずいぶんと安易なものに感じられる。
●哲学の普遍性とは何か?
まあそれも定義(というか名義)の問題だからどうでもいいといえば、どうでもいいのだが、私がいいたいのは、「哲学者」というのであれば、それは単に哲学が好きとか(そういえば肩書きに「哲学愛好家」と名乗ってる人もいたな、笑)、どうしても哲学的な疑問にとりつかれてしまうというのではなく、なんらかの哲学的「内容」を語りうるということでしょう、ということだ。ようするに内容で勝負じゃないのかと。だいたいここでいうことでもないだろうが、一連の中島氏の著作をみても、哲学的な「内容」というものはほぼ皆無に等しい。中島氏と池田晶子、それから土屋賢二の三人を哲学エッセイスト御三家というらしいが、この中で哲学的な「内容」そのもので書いているのは池田晶子さんだけ(その内容はいささか宗教的なものがあり、私としては批判的なのだが…)
ここで私がいう「内容」とは、わかりやすくいえば、哲学史にのっている誰々の哲学説に類するものだろう。これもまたひとつ問題のある言い方で、哲学はそういういろんな「説」があるから「科学」ではない、なんていわれ方をする。しかし科学というものが絶対ではないということが最近ではようやく浸透してきたし、その科学の根拠を考えるのも哲学である以上、科学ではない、ということは、だから何?ということになるだろう。ようするに科学かどうか、ではなくて、そういったそれぞれの哲学説の「普遍性」が問題だということだ。普遍性というのはどれだけ「納得しうるか」ということであり、その意味では哲学史は「美術史」に近いともいえる。哲学説はさまざまだが、哲学者それぞれの観点から、納得しうるというか、貴重な発見的といえる知恵が語られているわけである。普遍性問題については「美って何なんだ〜?」に書いたので参照いただきたい。(下記に紹介する「伊丹堂のコトワリ」に収録)
ようするにこれも、哲学やってりゃ(哲学的な考えにとらわれていれば)哲学者なのか?というのとまったく同様、哲学史に(教科書に)載ってりゃ、普遍的なのか?という問題になる。哲学史の場合はそこが微妙で、たとえばある学説を紹介するために同時代の先行する思想を紹介する必要がでたりする。そのためだけに後世に名を残した「哲学者」も多々ある。サリエリみたいなもんであるが、これもまた必要な存在なのだ。そういう意味では哲学史にのってるからといって普遍的であるとは限らない。また普遍性というのは先にあげた参照の私の伊丹堂の対談でも書いているように「絶対」の基準ではないから、ある人にとっては納得できないものであったりもする。肝心なことは、哲学というジャンルそのものが普遍的なものだというのではなくて、個々の哲学説、というか思考の結果に、普遍的なものもあればそうでないものもある、ということだ。これは「美術」について、美術というジャンルが普遍的なものではなく、普遍性をもつような優れた美術もあればそうでないクズ作品もある、ということを考えれば納得がいくだろう。
それが私が、哲学という態度ではなく、その「内容」にこだわる理由でもある。ようするに考えたことの結果が問題である。別に中島さんが生きにくいかどうかに興味はないのだ。
●すべては後からついてくる
というわけで最初の話にもどると、『オムレット』は、これ、ことごとく「哲学的な内容」そのものなので、私は「結果としての」哲学者であ〜る、といっているわけなのだ。実際、私はその中島氏についての書評を書いていた時点で、自分は中島氏のいう意味での哲学的な生き方はできないというようなことを書いていた。またそういう意味では哲学者ではないと感じていたので、自分も「哲学」をしている自覚はなかった。というよりなにより、『オムレット』が発売時に(それは制作過程でのある事情によるのでもあったが)「心理学」というジャンルの分類コードをつけられたことに違和感もなかったし、というより自分から「心理学でしょ」などといっていたのだ(笑)。
そしてその後、「伊丹堂シリーズ」を書いていく中で、世の思想家・哲学者などの考えに論評を加えたりしていくうちに、自分で書いた『オムレット』が、内容的にもそれら世の思想家・哲学者などの書いたものより遙かに深く哲学的「内容」を持っていることに気づいてしまったのだった(笑)。ホームページのタイトルを「臨場哲学」としたのも実はその後のことで、それまではむか〜し使っていたフリーぺーバーのタイトル「月刊ひるます」のままだったのだ。
そんなわけで、私は「後になって」哲学者であることに気づいた。しかし考えてみれば、そういうことは当たり前のことでもある。オムレットの中にも「自分は後からついてくる」という名文句?があるが、すべて創造的なコトガラというものは、あとからそれとわかるものなのである。哲学史にのろうと思って哲学をやるという人がいてもかまわないが(美術史にのろうとがんばる絵描きがいるのと同じ意味で)、そのために本来の普遍的な思考がねじまがってしまっては、本末転倒というものだろう。ちなみに下に画像をのせた竹田青嗣氏の提唱する「欲望の現象学」というのが、そのにおいが非常に強い。別に「現象学」を再評価して、自分はそれでものを考えているというだけでいいところに「欲望の〜」という冠をつけて、なにがなんでも自分の独自性?を出したいようなのだ。なにがなんでも欲望でなくていいだろうといったら、竹田氏の弟子とかいう人に噛みつかれたので、なんなんだ?と思ったことがある。
話がそれたが、そんなわけで「哲学者ひるます」について考えてみた。その哲学的な内容のイカンに関しては、『オムレット』と、その後の「La VUe」や「カルチャーレビュー」掲載の伊丹堂シリーズをご覧いただきたい。しかし「La Vue」の(「倫理って何なんだ〜」と「正義って何なんだ〜」)は現在、手軽に読める状況にないのでなんとかしたいものだな…。
【追記 2022.5.8 】ということで、「倫理って何なんだ〜」と「正義って何なんだ〜」、それから普遍性について語った「美って何なんだ〜」は、電子書籍「伊丹堂のコトワリ」にめでたく収録されてました。
ちなみに電子書籍化にあたり、大幅な加筆訂正をおこなっております。下記どうぞご購読いただければ幸いです。
【追記2】
noteに再録したら、noteの関連リンクというか、おすすめに下記の記事がでてきてびっくり(笑)
https://note.com/ittokutomano/n/n8334d95c5b85
【追記3】
竹田氏については、ものすごい昔だが、ひとつ発表した論考があります。いちおう伊丹堂シリーズの対話になってますので、ご参考まで。
資本システムと「倫理」~竹田現象学のアポリア