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【大乗仏教】空の思想 不来不去

今回は「八千頌般若経」で説かれる「空」について見ていきたいと思います。「金剛般若経」に関する下記の記事の続きになります。

①空を本体視しない
全てのものに固有・共通のいずれの自性(本体)もなく、自性の無いもの同士が互いに因縁によって集合・離散することで諸現象を生起・継続・消滅させている様を「空・空性」と表現する場合です。
  ●固有の自性(本体) ×
  ●共通の自性(本体) ×

②空を本体視する パターンA
全てのものに固有の自性(本体)はないが、「空・空性」という、特徴を持たない共通の自性(本体)があるとする場合です。「空・空性」から分化した一切のもの同士は互いに、空性という点で繋がっており、因縁によって集合・離散することで諸現象を生起・継続・消滅が起きているとします。
  ●固有の自性(本体) ×
  ●共通の自性(本体) ○

③空を本体視する パターンB
常住・清浄なものであっても、無常・雑染(煩悩性)なものに覆われていれば、その常住・清浄なものを「空・空性」と表現する場合です。具体的には「如来蔵(仏性)」「如来法身」「光り輝く心」「自性清浄心」「真如」等と言い表されるものです。

前回の記事にて、初期大乗仏教の「空」は①でなく、②ではないかと筆者は考えていると述べました。これはあくまで筆者の私見であり、一般的には②説よりも①説が有力視されています。

前回の「金剛般若経」において、如来とは「真如・生ずることはないという存在の本質・存在の断滅・究極的に不生であること」の異名と説かれていました。「八千頌般若経」においては、ダルモードガタ菩薩の説法中で下記のようになっています。

○不去・不来の縁起
ダルモードガタ菩薩大士:
「実に良家の子よ、如来たちはどこから来るのでも、どこかへ行くのでもありません。というのは、真相(真如)は不動であって、真相こそ如来に他ならないからです。良家の子よ、生じないものは来たり行ったりしません。しかも、生じないものこそ如来に他ならないのです。良家の子よ、真実の究極(実際)としては去来は知られません。しかも、真実の究極こそは如来に他ならないのです。良家の子よ、空性には去来は知られません。しかも、空性こそは如来に他ならないのです。良家の子よ、如実性には去来は知られません。しかも、如実性こそ如来に他ならないのです。良家の子よ、愛着のないもの(離欲・無染)には去来は知られません。しかも、無愛着の本性こそ如来に他ならないのです。良家の子よ、消滅には去来は知られません。しかも、消滅こそ如来に他ならないのです。良家の子よ、虚空の要素(虚空界)には去来は知られません。しかも、虚空の要素こそ如来に他ならないのです。」

「八千頌般若経」における如来とは「真相(真如)・生じないもの・真実の究極・空性・如実性・無愛着の本性・消滅・虚空の要素」であり、ほぼ「金剛般若経」と同じ意味で用いていることが分かります。

ダルモードガタ菩薩大士:
「例えば、良家の子よ、夏の最後の月に近付いた頃、夏の暑い日射しに照り付けられた男が真昼時に蜃気楼で水が流れているのを見るとしましょう。彼は、『ここで水を飲もう。ここで、飲み物を飲もう。』と。あちこちと駆けつけるとしましょう。良家の子よ、あなたはこれをどう思いますか。一体この水はどこから来たのであり、この水はどこへ行くのでしょう。東の大海へなのですか。南へなのですか。西へなのですか。北へなのですか。」
サダープラルディタ菩薩大士:
「良家の子よ、実に蜃気楼には水は存在しません。いわんや、どうしてその水の去来が知られましょうか。また、良家の子よ、その夏の暑い日射しに照り付けられた男は、愚か者、智慧劣るものであって、蜃気楼を見て、水でないものにおいて水との観念を抱くのです。また、そこには水の本体として存在しはしないです。」
ダルモードガタ菩薩大士:
「その通りです。良家の子よ、誠にその通りです。丁度そのように、良家の子よ、如来の色形や音声に執着している者は誰でも如来が来られるとか、去られるとかを妄想するのです。しかし、如来の去来を妄想する者は全て丁度水でないものにおいて、水との観念を頂くかの男のように、愚か者、智慧劣る者というべきです。それは何故かと言いますと、如来は物質を身体とする者(色身)として見られるべきでないからです。如来達は真理を身体する者、即ち法身なのです。良家の子よ、ものの本性(法性)は来たり行ったりしません。良家の子よ、丁度そのように如来達には去来は存在しないのです。」

ダルモードガタ菩薩大士:
「良家の子よ、例えば、弦楽器の音が生じつつあるからといって、音はどこから来るのでもないし、消えつつあるからといって、どこかへ行くものでもなく、どこかへ移るわけのものでもなく、原因や条件の総体に依存して生じるのであって、原因に依存し、条件に依存したものです。即ち、弦楽器の胴体を条件とし、皮を条件とし、弦を条件とし、棹を条件とし、柱を条件とし、撥を条件とし、演奏する人の加えるそれに相応しい努力を条件として、このように原因に依存し、条件に依存したものとして弦楽器の音は現れるのです。しかし、その音は胴体から発生するのでもなく、皮、弦、棹、柱、撥からでもなく、演奏する人の加えるそれに相応しい努力から発生するでもなく、それら全ての因縁の和合から音が現れるのです。ですから、消えつつある音もどこへも去ることはないのです。」

・蜃気楼の実像:実物の水
・蜃気楼の虚像:実物の水の虚像

・蜃気楼の実像:如来の法身
・蜃気楼の虚像:如来の色身・応身(肉体)

・蜃気楼の実像:ものの本性(法性)=空性
・蜃気楼の虚像:現象界の一切

ダルモードガタ菩薩大士の説法は「八千頌般若経」の後半部分に登場しますが、これを見ると、「空・空性」= 「如来の法身」=「ものの本性(法性)」であり、②説が有力であるように思えます。つまり、釈尊のように如来となった者の身体は有形・無形の全てを含めた現象界の森羅万象の本体である「空」そのものであるということです。このように解釈すると、これが後の初期大乗仏典の一つである「華厳経」の如来法身の遍在という思想の原点であると考えることができます。

・如来(仏陀):「空」と一体化できている(涅槃)
・衆生(有情):「空」と一体化できていない(輪廻)

②説に基づいて、輪廻観を考えると、本来我々は自・他の区別なく共通の精神と身体を持っているはずですが、無始以来の無明によって区別をしてしまい、それが輪廻へとつながっているといった図式になるでしょうか。後に登場するヴェーダーンタ学派のシャンカラの「不二一元論」に類似する図式ですね。シャンカラは大乗仏教の影響を強く受けていますので、案外上記の図式は間違っていないのかも知れません・・・。

また、「八千頌般若経」の前半部分には下記のように、「涅槃」について述べた箇所があります。ここは②説にも解釈できるのですが、①説で解釈した方が分かりやすい表現になっています。

スブーティ:
「神々よ、それらの有情は幻のようなものです。それらの有情は、神々よ、夢のようなものです。こうして幻と有情とは不二であり、分けることのできないものです。こうして夢と有情とは不二であり、分けることのできないものです。神々よ、全てのものもまた幻のようであり、夢のようなものなのです。」
神々:
「スブーティ聖者よ、完全に悟った人も幻の如く、夢の如きものである、と貴方は言うのですか。完全に悟った人の本性も幻の如く、夢の如きものである、と貴方は言うのですか?」
スブーティ:
「神々よ、涅槃も幻の如く、夢の如きものである、と私は言います。まして、その他のものは言うまでもありません。
神々:
「スブーティ聖者よ、涅槃さえも幻の如く、夢の如きものである、と貴方は言うのですか?」
スブーティ:
「ですから、神々よ、もし涅槃さえをも超えてより優れたものが何かあったならば、それさえ私は幻の如く、夢の如きものである、と言いましょう。こうして、神々よ、幻と涅槃とは不二であり、分けることができないのです。こうして、夢と涅槃とは不二であり、分けることができないのです。」

しかし、①で解釈すると、全衆生は修行せずとも予め仏陀であり、予め涅槃に到達しているという結論になってしまわないかと筆者は思います。それは明らかに可笑しいですよね。

ただし、後に「不二一元論」を提唱するヴェーダーンタ学派のシャンカラのように、輪廻の世界や有情は幻のようであっても、その幻を造り出す存在を説き、それを克服した境地(最高のブラフマン)=涅槃のみを本体視するのだということでしたら、①でも意味が分かります。シャンカラは「①+ブラフマン(梵)」なので、完全に①ではありません。

そう考えると、やっぱり②ではないかと・・・。話が複雑になりましたが、要は、筆者は大乗仏教は虚無主義ではない!と考えている派ということです。

○原始仏教の涅槃は③?
それでは、原始仏教の「涅槃」がどうだったか?以下の過去記事で触れたように、③説に近いように思えます。釈尊は「不生・不成・不作(無為)・常住・思考の及ばない境地」と表現しています。

初期大乗仏教は②説における「空」を如来法身とします。②の「空」は存在しては不動であるにしても状態変化する点では無常と言えます。それに対し、中期大乗仏教の如来蔵思想は③を如来法身とし、それは状態としても変化せずに恒常で、無常なるもの(煩悩)に蔽われているように見えてもそれらとは次元を異にしているとします。
※実は「八千頌般若経」にも③の原点と思われる「浄く輝く心」という言葉が登場していますが、この経典内ではその詳細は語られていません。

筆者の私見ですが、真実は②であるのか、③であるのかについては、後期中観派のシャーンタラクシタと無形象唯識派のラトナーカラシャーンティの意見の相違をそのまま現わしているのではないかと思います。(ここについてはまた後で詳しくお話ししたいと思いますが)。

シャーンタラクシタは②を最高とし、③は修行者が②を覚るための前段階と解釈したのではないかと思います。一方、ラトナーカラシャーンティは③を最高とし、②とはあくまで修行者が③と合一した際の視点と解釈したのではないかということです。

何となく、②はウッダーラカ・アールニの思想に、③はヤージュニャ・ヴァルキヤの思想に類似しているため、最高存在が世界外or世界内かという決着せずの議論が形を変えて再来したような気もします。ここでも決着がつかず、後の密教において、②が胎蔵界・③が金剛界の原点になったのではないかとさえ思えます。