今回は「八千頌般若経」で説かれる「空」について見ていきたいと思います。「金剛般若経」に関する下記の記事の続きになります。
前回の記事にて、初期大乗仏教の「空」は①でなく、②ではないかと筆者は考えていると述べました。これはあくまで筆者の私見であり、一般的には②説よりも①説が有力視されています。
前回の「金剛般若経」において、如来とは「真如・生ずることはないという存在の本質・存在の断滅・究極的に不生であること」の異名と説かれていました。「八千頌般若経」においては、ダルモードガタ菩薩の説法中で下記のようになっています。
「八千頌般若経」における如来とは「真相(真如)・生じないもの・真実の究極・空性・如実性・無愛着の本性・消滅・虚空の要素」であり、ほぼ「金剛般若経」と同じ意味で用いていることが分かります。
・蜃気楼の実像:実物の水
・蜃気楼の虚像:実物の水の虚像
・蜃気楼の実像:如来の法身
・蜃気楼の虚像:如来の色身・応身(肉体)
・蜃気楼の実像:ものの本性(法性)=空性
・蜃気楼の虚像:現象界の一切
ダルモードガタ菩薩大士の説法は「八千頌般若経」の後半部分に登場しますが、これを見ると、「空・空性」= 「如来の法身」=「ものの本性(法性)」であり、②説が有力であるように思えます。つまり、釈尊のように如来となった者の身体は有形・無形の全てを含めた現象界の森羅万象の本体である「空」そのものであるということです。このように解釈すると、これが後の初期大乗仏典の一つである「華厳経」の如来法身の遍在という思想の原点であると考えることができます。
・如来(仏陀):「空」と一体化できている(涅槃)
・衆生(有情):「空」と一体化できていない(輪廻)
②説に基づいて、輪廻観を考えると、本来我々は自・他の区別なく共通の精神と身体を持っているはずですが、無始以来の無明によって区別をしてしまい、それが輪廻へとつながっているといった図式になるでしょうか。後に登場するヴェーダーンタ学派のシャンカラの「不二一元論」に類似する図式ですね。シャンカラは大乗仏教の影響を強く受けていますので、案外上記の図式は間違っていないのかも知れません・・・。
また、「八千頌般若経」の前半部分には下記のように、「涅槃」について述べた箇所があります。ここは②説にも解釈できるのですが、①説で解釈した方が分かりやすい表現になっています。
しかし、①で解釈すると、全衆生は修行せずとも予め仏陀であり、予め涅槃に到達しているという結論になってしまわないかと筆者は思います。それは明らかに可笑しいですよね。
ただし、後に「不二一元論」を提唱するヴェーダーンタ学派のシャンカラのように、輪廻の世界や有情は幻のようであっても、その幻を造り出す存在を説き、それを克服した境地(最高のブラフマン)=涅槃のみを本体視するのだということでしたら、①でも意味が分かります。シャンカラは「①+ブラフマン(梵)」なので、完全に①ではありません。
そう考えると、やっぱり②ではないかと・・・。話が複雑になりましたが、要は、筆者は大乗仏教は虚無主義ではない!と考えている派ということです。
○原始仏教の涅槃は③?
それでは、原始仏教の「涅槃」がどうだったか?以下の過去記事で触れたように、③説に近いように思えます。釈尊は「不生・不成・不作(無為)・常住・思考の及ばない境地」と表現しています。
初期大乗仏教は②説における「空」を如来法身とします。②の「空」は存在しては不動であるにしても状態変化する点では無常と言えます。それに対し、中期大乗仏教の如来蔵思想は③を如来法身とし、それは状態としても変化せずに恒常で、無常なるもの(煩悩)に蔽われているように見えてもそれらとは次元を異にしているとします。
※実は「八千頌般若経」にも③の原点と思われる「浄く輝く心」という言葉が登場していますが、この経典内ではその詳細は語られていません。
筆者の私見ですが、真実は②であるのか、③であるのかについては、後期中観派のシャーンタラクシタと無形象唯識派のラトナーカラシャーンティの意見の相違をそのまま現わしているのではないかと思います。(ここについてはまた後で詳しくお話ししたいと思いますが)。
シャーンタラクシタは②を最高とし、③は修行者が②を覚るための前段階と解釈したのではないかと思います。一方、ラトナーカラシャーンティは③を最高とし、②とはあくまで修行者が③と合一した際の視点と解釈したのではないかということです。
何となく、②はウッダーラカ・アールニの思想に、③はヤージュニャ・ヴァルキヤの思想に類似しているため、最高存在が世界外or世界内かという決着せずの議論が形を変えて再来したような気もします。ここでも決着がつかず、後の密教において、②が胎蔵界・③が金剛界の原点になったのではないかとさえ思えます。