【大乗仏教】清弁の自立論証
中期中観派の自立論証派である清弁(バヴィヤ)の理論化例を見ていきます。清弁は陳那(ディグナーガ)の仏教論理学を自身の中観哲学の中に、ほぼ全面的に取り入れました。陳那の仏教論理学については、以下の記事をご参照ください。
清弁は帰謬式という間接論証ではなく、陳那の自立論証式によって中観の基本的立場を定言的に論証しうると考えたのです。それに対して、月称(チャンドラキールティ)はむしろ新興の論理主義と対決し、論理学を中観の本質と相容れないないものとして嘲笑することによって中観思想を主体の問題としてのみ追求しようとしました。
仏護(ブッダパーリタ)の議論は帰謬論証に過ぎないもので、定言論証に必要な理由(小前提)を述べていません。しかも、帰謬論証を用いると、その小前提および帰結にあたる部分とそれぞれ反対な意味が仏護の真の意図であると理解されてしまいます。仏護を非難した清弁は定言論証をその方法として主張しましたが、龍樹の本体の論理を定言論証式で表記することが果たして可能なのでしょうか?定言論証はあくまでも現象の論理に属するものです。
『般若灯論』において、清弁は龍樹の論証の一々を定言論証に置き換えており、その推理の形式は大体一定しています。「アートマンに関する同一性と別異性のディレンマ」を置き換えた論証式を例に見ていきます。
清弁の論証式が確かに帰謬論証でないことは分かります。この小前提(理由)は帰謬論証の場合のように、清弁自身にとって偽であるわけではなく、結論も不合理ではありません。この帰謬の二要件を満たさないから、この推理は形式的には定言論証であるのですが、仏護と同じように、清弁も龍樹のディレンマや四句否定を二つないし、四つの論証式に分離させています。
しかし、清弁は自身の「結論(主張)」の否定は「命題の否定」であると断っており、「名辞の否定」でないことを先に強調しています。この条件を付けることによって、ディレンマや四句否定を二つないし四つの定言論証に分解したことから生じる問題を抑止しました。仏護はこの特殊な条件を付けずに、第一肢を主張した後にそれと相反する第二肢を主張したために、主張の矛盾を指摘されてしまったのです。
「最高の真実から見れば」という箇所を除けば、清弁の主張は一見論証式して成り立っているようにも見えます。ところが、「最高の真実から見れば」というのが大きな問題となります。まず、清弁が証明したい内容が分かるように、清弁の『般若灯論』での表現を用い、論証式へ次のように言葉を足してみます。
龍樹の説く「世俗諦」と「勝義諦」です。清弁は世俗諦(一般の理解・他学派の理解)では有るものが、勝義諦(最高の真実)では無いということを論証しようと試みているわけですが、そのようには論証できていません。清弁の論証式に対する他派からの批判を見ていきます。
【第一肢】の場合
外界の元素(大前提)
・一般の理解:自我ではない
・最高の真実:自我ではない
身心の諸要素(小前提)
・一般の理解:自我である
・最高の真実:自我ではない
【第二肢】の場合
石女の子(大前提)
・一般の理解:存在しない
・最高の真実:存在しない
身心の諸要素と別個な自我(小前提)
・一般の理解:存在する
・最高の真実:存在しない
安慧(スティラマティ)のこの批判は実に的を射たものです。清弁の論証式は第一肢の場合、「勝義的には自我ではない」と相違する「世俗的に自我ではない」を論証してしまうことになります。清弁の前提として、世俗としては身心の諸要素は自我である(もしくは第二肢の場合、身心の諸要素と別個な自我は存在する)と認められています。これは、この論証式の主張命題の特殊な意味として含蓄されていますが、証因はこの特殊な意味を否定するため、陳那の論理における相違因に該当します。
それでは、喩例(喩)、つまり大前提として、一般の理解では自我であり、最高の真実では自我でないものを提示することはできるでしょうか?否、無理ですね。つまり、龍樹の本体の論理が、現象の論理の領域における矛盾の原理を否定している時に、それを定言論証式で表記することは不可能ということになります。定言論証はあくまで現象の論理に属するものであるからです。