【大乗仏教】後期中観派の中核3
下の記事の続きになります。
後期中観派の中で、より中観派的な立ち位置のシャーンタラクシタらは一般理解の立場において、「外界の存在を否定し、心(内界)のみの存在を肯定」しました。即ち、唯識派の立場を一般理解の立場で認めたものの、最高の真実としてはその心(形象だけでなく照明)の実在性をも否定したのです。真如(真理)とは「心の照明をも超越した絶対的な空」としたのです。
しかし、後期中観派の中で、無形象唯識的な立ち位置のラトナーカラは、シャーンタラクシタの説に異論を唱えました。彼は、この万物の根源たる「絶対の空」というものを、大乗空思想の原点である般若経典の「純一清浄なる空」「浄く輝く心」に立ち戻って考えるべきだとしたのです。シャーンタラクシタの説く「絶対の空」というのは、結局「純一清浄に光り輝く心=照明」に合一した境地での視点を示しているに過ぎないというのです。
ここまでは前回までの内容ですが、「絶対の空=照明(光り輝く心)=阿頼耶識の中心」という形で、まとめられていきます。即ち、大乗仏教の五位における「加行道」の「四善根」は次のようになります。(加行道は菩薩十地の予備段階でもあるので、「信解行地」とも言われます。)
主観と客観という形象の覆障を捨て去ると同時に、直ちに菩薩十地の初地である歓喜地に入ります。この時点で、阿頼耶識・末那識・意識・前五識の大部分の領域は、完全ではないものの四智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)へ転換しているのではないかと思われます。歓喜地に達すると、五位の見道へ入ったことになり、光り輝く心(法界)を直観して、そこに安住する菩薩大士は続けて修道にあたる第二地から第十地へ入っていきます。そこで、衆生を教化・救済する術の数々を習得しながら、阿頼耶識の中に残った煩悩・習気の残りカスや菩薩行への執着を徐々に断じていき、仏地(如来)へ至るとします。
上の記事で、「華厳経」内で説かれる菩薩十地を説明しています。「華厳経」の菩薩十地では、自利修行と利他修行を同時に進めていく方法であり、ここでの入り方とは多少異なります。修道の入り方が一通りではない点は大乗の五位、説一切有部の五位ともに共通していると言えます。
四善根は加行道(信解行地)の後半に該当しますが、次回の記事で前半と、加行道の前段階である資糧道を見ていきたいと思います。