龍樹(ナーガルジュナ)は本体・自性(スヴァバーヴァ)を持つものは存在しないとしましたが、彼はその本体というものをどのように捉えていたのかを具体的に見ていきたいと思います。
○龍樹が説く本体・自性(スヴァバーヴァ)
上記の点を踏まえ、龍樹の「自性(スヴァバーヴァ)」の定義について、仏教学者の梶山雄一氏は次のように解説されています。
「自立・恒常・単一」なものだけが本体であるとすると、有部やヴァイシェーシカ学派などの他学派の本体の定義と比較しても、各段とレベルが高いことが分かります。これだけ本体と定義できるもののレベルが高いと、確かに「如何なるものも本体・自性でない」が成立してしまいますね。やはり、本体や自性をどのように定義すべきなのかを議論し合った方が良かったように思えます。
さて、「般若経」の記事にて筆者は大乗仏教の「空」について、以下を挙げました。
まず、③は龍樹が説く本体・自性の定義に当てはまるものと思われます。故に、中観派の立場では存在しないことになります(存在するにしても最高存在ではない)。
①と②は龍樹の本体・自性の定義に該当しないため、この二つの内のいずれかが龍樹の空と考えられます。筆者は①は虚無主義的というか、古い唯物論的というか、大乗仏教全般の「空」とは該当しないような気がしています。