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【大乗仏教】中観派 自性(スヴァバーヴァ)

龍樹(ナーガルジュナ)は本体・自性(スヴァバーヴァ)を持つものは存在しないとしましたが、彼はその本体というものをどのように捉えていたのかを具体的に見ていきたいと思います。

○龍樹が説く本体・自性(スヴァバーヴァ)

中論 第十三章 形成されたものの考察、十五章 自性の考察 より
龍樹:
「諸々のものにとって無自性が存する。何となれば、変化することを見るが故に。自性を有しないものは存在しない。何となれば、諸々のものに空が存するから。もしも、自性が存在しないならば、何ものに変化するという性質があろうか。もしも、自性が有るならば、何ものに変化するという性質があろうか。」~
「自性が多くの原因や条件によって生じるということはできない。原因や条件から生じた本体は作られたものとなってしまおう。また、どうして自性がそもそも作り出されたものとなるであろうか。何となれば、自性は作り出されたのではないものであって、また、他のものに依存しないものだからである。もしも、自性がないならば、どうして他性が有り得ようか。何となれば、他性のそれ自体は他のものであるということであるからである。更に、それ自体と他性とを離れて、どこに存在するものが成立しえようか。何となれば、自性や他性が存在するからこそ、ものが成立するのである。有(存在するもの)が、もしも成立しないならば、無もまた成立しない。何となれば、有の変化すること(異相)を人々は無と呼ぶからである。自性と他性、また有と無とを見る人々はブッダの教えにおける真理を見ない。~「有り」というのは常住に執著する偏見であり、「無し」というのは断滅に執著する偏見である。」

上記の点を踏まえ、龍樹の「自性(スヴァバーヴァ)」の定義について、仏教学者の梶山雄一氏は次のように解説されています。

仏教学者 梶山雄一氏の解説:
自性とは他のものによって作られたものでないから自立的存在である。それは決して変化せず、生滅しないから恒常的存在である。そして、因果関係の分析の中に見られるように、自性は部分を持たないから単一的存在である。したがって、ナーガルジュナのいう自性とは、自立・恒常・単一な実在のことであることが分かる。

「自立・恒常・単一」なものだけが本体であるとすると、有部やヴァイシェーシカ学派などの他学派の本体の定義と比較しても、各段とレベルが高いことが分かります。これだけ本体と定義できるもののレベルが高いと、確かに「如何なるものも本体・自性でない」が成立してしまいますね。やはり、本体や自性をどのように定義すべきなのかを議論し合った方が良かったように思えます。

さて、「般若経」の記事にて筆者は大乗仏教の「空」について、以下を挙げました。

①空を本体視しない
全てのものに固有・共通のいずれの自性(本体)もなく、自性の無いもの同士が互いに因縁によって集合・離散することで諸現象を生起・継続・消滅させている様を「空・空性」と表現する場合です。
  ●固有の自性(本体) ×
  ●共通の自性(本体) ×

②空を本体視する パターンA
全てのものに固有の自性(本体)はないが、「空・空性」という、特徴を持たない共通の自性(本体)があるとする場合です。「空・空性」から分化した一切のもの同士は互いに、空性という点で繋がっており、因縁によって集合・離散することで諸現象を生起・継続・消滅が起きているとします。
  ●固有の自性(本体) ×
  ●共通の自性(本体) ○

③空を本体視する パターンB
常住・清浄なものであっても、無常・雑染(煩悩性)なものに覆われていれば、その常住・清浄なものを「空・空性」と表現する場合です。具体的には「如来蔵(仏性)」「如来法身」「光り輝く心」「自性清浄心」「真如」等と言い表されるものです。

まず、③は龍樹が説く本体・自性の定義に当てはまるものと思われます。故に、中観派の立場では存在しないことになります(存在するにしても最高存在ではない)。

①と②は龍樹の本体・自性の定義に該当しないため、この二つの内のいずれかが龍樹の空と考えられます。筆者は①は虚無主義的というか、古い唯物論的というか、大乗仏教全般の「空」とは該当しないような気がしています。