【大乗仏教】シャーンタラクシタの唯識派批判
前回は、シャーンタラクシタによる有部の無形象知識論批判と経量部の有形象知識論批判を見てきました。今回は、シャーンタラクシタによる有形象唯識論批判と無形象唯識論批判を見ていきたと思います。
有形象唯識批判
【有形象唯識論の特徴】
・外界は存在しない
・照明(阿頼耶識の中心)と形象(阿頼耶識の種子とそこから生じる主観と客観)は実在する
・思惟や感情といった、表象以外の精神作用は真実在ではない
有形象唯識派によれば、全てのものは無始以来の過去より「阿頼耶識の流れ」の中に蓄積されてきた「印象の種子」が成熟し、主観(末那識と六識)と客観(六識内の表象)となって現れたものであって、外界は存在しないと説きます。
しかし、「六識内の表象(客観)は常に複数的であるのに、六識自体は単一である」という経量部を苦しめた問題は解決されていません。有形象唯識派も識の複数性を承認するか、表象の単一性を主張するか、いずれかの立場をとらなければならないとシャーンタラクシタは主張します。
しかし、もし表象が単一ならば、世界の一部が動けば全世界が動くことになり、一部が黄色であれば、全世界が黄色であることになります。その困難を避けて表象の複数性を認めれば、表象を伴った一瞬の識(六識)自体の複数性をも認めなければならないことになり、それは不合理です。経量部と同様、有形象唯識派も青や黄などの多くの知覚は、同種類ではあるけれども同一瞬間に起るから、識の単一性と形象の複数性は矛盾しないと言います。
しかし、有形象唯識派に属する仏教哲学者ダルマキールティ(法称)も視覚と聴覚などの異種類の認識は同一瞬間に起こるものの、視覚と視覚などの同一種類の二つ以上の認識は同時に起こらないことを認めており、シャーンタラクシタは自派の経典の説明にも背く主張であると反論しています。
無形象唯識批判
【無形象唯識論の特徴】
・外界は存在しない
・照明(阿頼耶識の中心)=光り輝く心のみが実在する
・形象(阿頼耶識の種子とそこから生じる主観と客観)は真実在ではない
・思惟や感情といった、表象以外の精神作用も真実在ではない
最高の真実として、認識の照明(光り輝く心)は水晶球のように、認識の形象によって少しも汚されていないものとします。形象は無始以来積み重ねられてきた誤った潜在意識によって現象するに過ぎないのです。即ち、形象は実在しませんが、照明は実在すると説きます。
確かにこの立場では単一な識と複数の表象の矛盾は存在しないことを、シャーンタラクシタは認めます。しかし、実在するが見られない認識の照明と見られてはいるが実在しない認識の形象との間にはいかなる関係も成り立たないのではないかと批判しています。両者が認識という同一性によって結びついているのであれば、一方が実在で他方が非実在であることはできないからと主張します。
また、もし形象という非実在が、真実在である照明を原因として生じるならば、形象は全く非実在であるとは言えないとも反論しています。即ち、無形象唯識派は、形象はその原因である照明とは全く別で、非実在であると主張することはできないとシャーンタラクシタは主張しています。
この無形象唯識派と中観派の真理に対する議論は、この後の大乗仏教界において、様々に形を変えて行われていくことになります。