【大乗仏教】盧舎那如来と久遠の釈迦如来
今回は如来蔵思想・唯識思想の原点となった言われる初期大乗経典「華厳経」「法華経」において、「仏の三身(法身・報身・応身)」を見ていきたいと思います。
○盧舎那如来
「華厳経」の教主、盧舎那如来(毘盧舎那如来)は梵語(サンスクリット語)でヴァイローチャナといいます。ヴァイローチャナは光明遍照、即ち、太陽という意味であり、盧舎那如来は太陽のように常に世界を照らし続ける偉大な仏という意味です。あたかも太陽が世間の一切の暗闇を除き、一切の万物を生長させるが如く、仏の光明の広大無辺を表したものです。「華厳経」では広大無辺の宇宙を蓮華蔵世界海といい、その中心に盧舎那如来がいて教えを説き、人々を救い続けています。ヴァイローチャナは『六十華厳経』では盧舎那如来、『八十華厳経』では毘盧舎那如来と訳されていますが、どちらも同じ「報身仏(仏になるための修行を積み、その報いとしての功徳を具えた仏身)」となります。しかし、同時に盧舎那如来はは永遠不滅の仏法(真理)そのものという意味で「法身仏(仏の本身としての永遠不滅な法そのもの)」ともいわれます。つまり、ヴァイローチャナには「法身仏」「報身仏」の両側面が存在していると思われます。
「浄土三部経」の阿弥陀如来(無量寿如来)(梵語:アミターバもしくはアミターユス)が有名な報身仏です。阿弥陀如来の前身は法蔵菩薩(ダルマーカラ)であり、法蔵菩薩は誓願を立て、修行を積み、阿弥陀如来となりました。一方、盧舎那如来の前身は普荘厳童子であり、普荘厳童子もまた仏になるための修行を積み、盧舎那如来となったことが「華厳経」中で説かれます。ただし、報身仏という言葉が登場したのは「浄土教」や「華厳経」よりも後になります。
密教では盧舎那如来を理智不二の「法身仏」とし、大日如来(マハー・ヴァイローチャナ)と称しており、密教の方が「華厳経」よりも根源的立場から盧舎那如来を捉えているように見受けられます。
また、普荘厳童子という前身を持つ盧舎那如来ですが、「華厳経」中において、覚りを開いた釈尊が盧舎那如来と呼ばれています。このことから、筆者の私見になりますが、煩悩を滅して覚りを開いた者は全員、盧舎那如来となる(一体化する)ということではないかと思います。もしくは、普荘厳童子の話は後から書き足された設定であるのかも知れません。
○華厳経の時代はまだ仏身二身説?
法身仏は色も形もなく、思惟や言語を超えた虚空に例えられる宇宙の根元的真理としての仏となります。一方、色身(化身・応身)の仏とは法身の化身、即ち法身の顕現として具体的な色や形をもって現れる仏です。このような法身と色身による二身説は「華厳経」において初めて現れます。後に、唯識派が法身・報身・応身による三身説を説きますが、「華厳経」の段階ではまだ三身という言葉は登場していないと思われます。「六十華厳経 盧舎那仏品」によれば、法身はしっかりと安定したもので崩れることはなく、全ての多くの法界に充ち満ちており、あらゆるところに多くの色身を現すことができ、臨機応変に衆生を教化して善に導くとします。
初期の「般若経」の頃から、如来は法を身体とするという考え方は登場していましたが、「華厳経」以降からその思想がより具象化していきます。
○久遠の釈迦如来(久遠の本仏)
「華厳経」では覚りを開いた釈尊が盧舎那如来となるという感じでしたが、「法華経」においては、人間として現れた釈尊は無限の過去に既に覚りを開いた久遠の釈迦如来(久遠の本仏)の応身(化身)となります。
智慧や善根に乏しい衆生達を法門へ導くために、釈迦如来はあえて、人間(ガウタマ・シッダールタ)として生まれ、三十五歳で覚りを開いて、八十歳で生涯を終えたように再現したということになります。つまり、この世に生まれた釈尊(ガウタマ・シッダールタ)はあくまで仮の姿に過ぎず、釈迦如来をはじめとする如来達は法身(仏法・真理を身体とする)であり、食によって保たれる色身(肉体など)ではないのです。また、経典中には釈迦如来(化身)以外にも、久遠の釈迦如来(法身)の化身が登場しています。
○応身仏の釈迦如来
「大乗梵網経」では盧舎那如来の法身から無数の釈迦如来が色身(化身・応身)として生まれ、それぞれ教えを説き、人々を無尽蔵に救い続けていることが説かれます。盧舎那如来は1000枚の花弁のある蓮華の台座に座って教えを説き続け、1000枚の花弁の花弁1枚1枚に「千葉の大釈迦如来」がいて、各々1000枚の花弁のある蓮華の台座に座って教えを説き、そして、千葉の大釈迦如来が座る台座の花弁の1枚1枚には「千葉の小釈迦如来」がいて教えを説き続けるとします。
このような如来法身の思想が如来蔵思想や密教思想へと繋がっていきます。