「華厳経」は如来蔵思想の原点と言われていますが、同時に唯識思想の原点の一つではないかともいわれています。唯識思想は主観的契機(内界)のみならず、客観的契機(外界)をも識(心)から現れ出るという思想であり、外界は存在しないとします。
如来林菩薩は例えの表現として、下記の①~④を用いています。
①巧みな画家:絵画を描く者
②描かれた色と形:平面上に描かれた絵画のモデル、対象や題材等
③諸々の彩色:絵画上のモデルや題材を構成する彩色
④四大元素:実際の絵画のモデルや題材自体を構成する要素
これらの①~④は、次のものを例えたものと筆者は考えいます。
【如来林菩薩が例えたもの】
①心
②多様な衆生の精神・身体と、衆生が生存する器世間
③五蘊(色・受・想・行・識)
④過去世の業・潜在煩悩・残存印象
画家は、モデル・対象・題材等を基に、彩色を用いて、平面上にそれらを描きます。「①心」は、過去世の業・潜在煩悩・残存印象を基に、五蘊を用いて、多様な衆生の有り方とその衆生が生存する環境世界を造りあげます。つまり、④において煩悩が無く、功徳に満ちていれば、「①心」は仏(如来)を描きあげるということであると思われます。
このように解釈しますと、「①心」とは「如来蔵」「光り輝く心」を指していることになります。④は「阿頼耶識の種子」となり、①と④を合わせると「阿頼耶識」です。如来蔵思想では如来蔵を心とし、唯識思想では阿頼耶識を心とします(無形象唯識派は阿頼耶識の中心に光り輝く心を別途たてますが)。即ち、「華厳経」はより如来蔵思想に近い視点で、「心」という言葉を用いていることが分かります。
〇十二縁起と三界唯心
「華厳経」では、釈尊が説いた「十二縁起」も「心」一つに収斂されるとします。
無明(潜在煩悩の無明・迷妄・愚癡)と行(業・残存印象・その他潜在煩悩)が④に含まれ、①心と④を合わせて識となります。ここでの「識」は唯識思想の「阿頼耶識」に相当しており、ここから一切が展開していくとします。