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【大乗仏教】空の思想 阿弥陀如来の極楽浄土

「八千頌般若経」に登場した自身の善根(善行の功徳)を自身の完全な覚り(全知者性)の原因へと転換する廻向は、やがて自身の善根(善行の功徳)を他者の楽果(幸福)へと転換するといった意味をも担うようになります。これが「阿弥陀如来の極楽浄土」へと発展したものと思われます。今回は「浄土経典」の内容を見ていきたと思います。浄土経典は五濁悪世(末法の世)の衆生のために釈尊が阿弥陀如来による救いを説いた経典です。

○法蔵菩薩(ダルマーカラ)の誓願
阿弥陀如来の前身(前世)である法蔵菩薩(ダルマーカラ)は師である世自在王如来のもとで本願を立てます。法蔵菩薩が本願を立てて修行し、自利利他の行が完成して、自ら阿弥陀如来になると同時に一切衆生がこの仏の名号を信じ、称えて修行することによって極楽浄土に転生することが約束されたという事が説かれます。

「仏説無量寿経」(梵語原典)より
釈尊:
「かの修行僧ダルマーカラ(法蔵)は、かの世尊ローケーシヴァラ・ラージャ(世間において自在である王・世自在王・シヴァ神)如来の面前において、詩句によって讃えてから、こう言った。法蔵:『世尊(世自在王如来)よ、私はこの上無い正しい覚りを現に覚りたいのです。幾度も幾度もこの上無い正しい覚りに向かって心を起こして、その心を次のような願いに向けたいのです。即ち、私がな特徴や配置の完成を私が取り入れることができますように、私のためそれらの様相を褒め讃えて下さいませ。」

釈尊:
「さて、アーナンダよ、かの修行僧ダルマーカラは、これらの百千億の百万倍の八十一信の目覚めた人達(諸仏)の仏国土の見事な特徴や装飾や配置の完成された姿の全てを一つの仏国土に具現すべく集約しておさめとって、世尊ローケーシヴァラ・ラージャ如来の両足を頭に頂いて敬礼し、右まわりにまわって、かの世尊のもとから退いた。それから更に五劫の間、十方における一切の世間にかつて現れたことのない、更に広大であり、更に絶妙である仏国土の見事な特徴や装飾や配置の完成をおさめとった。そうして、更に広大な誓願を起こしたのであった。」

ローケーシヴァラ・ラージャこと、世自在王とはヒンドゥー教のシヴァ神に該当します。以下の四十七の誓願の二十六番目にもナーラーヤナ神、即ちビシュヌ神の名前が登場します。浄土教はヒンドゥー教の影響も受けていると言われています。

○法蔵菩薩の四十七の誓願の例
漢訳では四十八の誓願になっていますが、梵語原典では四十七の誓願になります。漢訳で有名な十八番目の誓願は、梵語原典では十九番目の誓願に該当しています。

十一:
世尊よ。もしも、かの私の仏国土に生まれた生ける者どもが皆、大いなる心の平安(パリニルヴァーナ)に至るまでの間、いつかは正しく目覚め(仏とな)るに決まっている状態にいないようであれば、その間私はこの上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。

十八:
世尊よ。もしも、私が覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、この上ない正しい覚りを得たいという心を起こし、私の名を聞いて、清く澄んだ心を以て私を念い続けていたとしましょう。ところで、もしも彼らの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように私が修行僧達の集いに囲まれて尊敬され、彼らの前に立つということがないようであったら、その間私はこの上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。
十九:
世尊よ。もしも、私が覚りを得た後に、無量・無数の仏国土にいる生ける者どもが、私の名を聞き、その仏国土に生まれたいという心を起こし、色々な善根がそのために熟するようにふり向けたとして、その彼らが、無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するという(煩悩の)障礙に覆われている者どもを除いて、例え、心を起こすことが十返に過ぎなかったとしても、(それによって)その仏国土に生まれないようなことがあるようであったら、その間私はこの上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。

二十六:
世尊よ。もしも、私が覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者達が皆、ナーラーヤナ神(ビシュヌ神)が金剛で打つような強固な体や力を得るようにならないようであったら、その間私はこの上無い正しい覚りを現に覚ることがありませんように。

四十七:
世尊よ、もしも、私が覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者達が私の名を聞くであろうが、名を聞くと同時に第一、第二、第三の認知(忍)を得ることができず、目覚めた人の法から退かない者になれないようであったならば、その間は私はこの上無い正しい覚りを現に覚ることがありませんように。
※第一の忍(音響忍):仏の説法の音声を聞いて、道理を知って安住すること
※第二の忍(柔順忍):自ら思惟して、真理に安住すること
※第三の忍(無生法忍):全てのものが生ずることもなく、滅することもないという真理を知ってそこに安住すること=「維摩経の不二の法門」

そして、今や法蔵菩薩は仏(阿弥陀如来)となったため、仏を念じる者は必ず救われるということになります。阿弥陀如来の別名は無量寿如来、または無量光(梵語:アミターバ)如来であり、アミターバとは限りなき光を意味します。

○幸あるところ(極楽浄土)
極楽浄土はこの世界(我々の世界)から西方に向かって十万億の仏国土を過ぎたところにあると説かれています。

釈尊:
「アーナンダよ、かの<幸あるところ>という世界は種々のかぐわしい香があまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、阿弥陀如来によって現し出された妙なる音声を持つ種々の鳥の群れが住んでいる。アーナンダよ、かの仏国土はこのような七種の宝石(金・銀・瑠璃・水晶・琥珀・赤真珠・瑪瑙)でできている木々に覆われ、また、七種の宝石でできている芭蕉の幹と、宝石でできているターラ樹の並木によってあまねく取り巻かれている。実に、また、アーナンダよ、かの仏国土には全く黒山はなく、至るところ宝石の山なのだ。」

その他、極楽浄土には七宝の蓮池があり、天の音楽が奏でられています。流れる種々の河は、住人の望む通りの深さ・温度となり、好ましい香り、美しい蓮華の景色、鳥達の心地よい鳴き声が聞こえます。

釈尊:
「実に、また、アーナンダよ、かの<幸あるところ>という世界に既に生まれ、現に生まれ、未来に生まれるであろう一切の生ける者どもは、このような色・力・努力・高さ・広さ・主権・幾多の福徳・神通・衣服・装飾・園林・宮殿・楼閣といったような享楽物や、このような色形・音声・香り・味・感触といったような享受物や、また、一切のこのような享受物がその身に具わっている。その点は他化自在天なる神々のようである。実に、また、アーナンダよ、<幸あるところ>という世界にいる生ける者どもは粗末な食物を摂らない。そうではなくて、どのような食物でもそれを摂りたいと望む時にはそのようなものを摂ったと感じ思っただけで、身体は喜びに満ちた状態になる。四肢は喜びに飽満した状態となる。これ以外に彼らは身に取り入れる必要がないのだ。」

極楽浄土には身心の苦もなく、住人は他化自在天のように恵まれています。しかし、ここは楽をする場所ではなく、快適な環境で修行をする場です。

○五濁悪世
釈尊入滅から500~1000年の後、教法は伝わっているが、修行者も覚りを開く者もいない時代、末法の世がやってくるとします。五濁悪世とは五つの汚れに満ちた悪い世の意です。

師(釈尊)は求道者マイトレーヤや神々や人間たちに言われた。
「無量寿如来(阿弥陀如来)の仏国土の法を聞く修行者や求道者の功徳や智慧は言葉で説明することができない。また、その仏国土が微妙であり、幸福であり、清らかであることは先に述べた通りなのだ。なぜ、努力して善を為そうとしないのか。道を念ずれば、仏国土は自然に現れ、そこには人間の上下なく、どこまでも伸びひろがって限界がない。各々よろしく努力精進して自らこの仏国土に生まれることを求めてみるがよい。そうすれば、この俗世を超絶しおわって<幸あるところ>という世界に生まれることができよう。その際には思いのままに五つの悪しき所を断ち切ることとなり、悪しき所は自然に閉ざされ、無限に道を昇ることができるであろう。」

●有無同然
釈尊:
「世の人は浅はかで、急ぐ必要のないことを争い求める。この烈しい悪と苦痛の中で人々は日常の営みに身を苦しめ、働き、自分の生活にあくせくしている。身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老いも若きも、男も女も、悉く皆、金銭・財貨に心を煩わす。持てる者も、持たざる者もその憂き思いに変わりはない。うろうろと愁え苦しみ、心配ばかり積み重なり、心は追い回されて安らぐ時がない。人々は寒気・熱気に苦しめられ、苦痛と同居している。貧しく、困窮し、下劣な人々は困苦欠乏して常に持たない。田がなければ田が欲しいと思い、家がなければ家が欲しいと思い、金銭・財貨・衣服・食物・家具がなければまたこれらを欲しいと思う。たまたま、その中の一つがあるときは、また他の一つが欠け、これがあればあれが欠け、全てを他人と等しく持ちたいと願う。たまたま願いのまま具わるかと思えば、忽ちまた散り失せるのだ。憂い苦しむこと、このようである。また、いくら求めても得られぬときもある。そんな時はいくら思い惑うても無益であり、身心ともに疲労し、立ち居も思うに任せぬようになる憂いの思いが次々と起こって苦しむこと、このようである。」

▽五濁悪世
●第一の悪:
強い者は弱い者を征服し、互いに争い、傷つけ、殺し合い、互いに相手を呑みこもうとする。
●第二の悪:
義理を知らず、法律に従わず、贅沢であり、好色であり、高慢であり、放縦であって、各々快楽を求め、思うままに行動し、互いに欺し合い、心と口とが裏腹であって言葉に誠実さがなく、諂いの言葉を口にするばかりで誠意な心はなく、言葉巧みに媚び諂い、賢者を嫉み、善人を誹り、人を陥れようとする。
●第三の悪:
人のものは欲しがり、自分のものは惜しんで、ただ徒らに自分のものにしたいと思うばかりである。
●第四の悪:
二枚舌を使い、悪口を言い、心とは裏腹なことを言い、お世辞を言う。人を中傷し、奪い、戦い、平安を乱す。善人を憎み、嫉妬し、賢者や聖者を傷つける。やたらに権力を振るって人の権利を侵害する。
●第五の悪:
父母が教えさとしたりすれば、目をいからして怒り、口答えする。恩に背き、義理に違い、人の親切に報いようという心がない。ほしいままに人のものを奪い、ほしいままにそれを使い果たす。酒を飲み、美食を摂り、飲食に節度がない。ほしいままに放蕩し、心のままに誰とでも衝突するのだ。

このような劣悪環境ではまともな修行はできません。ならば、来世で阿弥陀如来の極楽浄土に生まれるように、現世で善を成し、来世で快適に修行すればよいということです。

○専修念仏と報恩謝徳の念仏の原点
「仏説観無量寿経」において、衆生が死後、極楽浄土へ転生する仕方について、上品上生から下品下生までの九種類が説かれます。その中で下品下生に専修念仏の原点と思われる部分が登場します。

下品下生の者とは、生ける者どもの中で不善な行為である五逆罪と十種の悪行を犯し、その他様々な不善を行い、このような悪しき行為の結果、悪しき道に堕ち、長い間繰り返し繰り返し苦悩を受けて止むことのない愚か者である。~この者は苦しみに迫られて仏を念ずる暇がない。そこで指導者が言うのに、「お前がもし仏を念ずることができないのなら、無量寿仏よ、と称えなさい。」と。このようにして、この者は心から声を絶やさぬようにして十念を具えて、南無アミタ仏と称える。仏の名を称えるのであるから、一念一念と称える中に、八十億劫の間、彼を生と死に結びつける罪から免れるのだ。

また、「仏説阿弥陀経」ではつぎのように説かれます。

釈尊:
「生ける者どもは僅かばかりの善行によって無量寿如来の仏国土に生まれることはできない。シャーリプトラよ、立派な若者や、あるいは立派な娘があって、かの世尊・無量寿如来の名を聞き、聞いて心の中で考え、あるいは一夜、あるいはニ夜、〜あるいは七夜の間、心を散乱させることなく、心の中でよく考えたならば、その立派な若者や、あるいは立派な娘の臨終のときに、かの無量寿如来は教えを聞く修行者たちの群れにとり巻かれ、求道者たちの群に敬われて、かの臨終の者の前に立たれるであろう。その人は、死の恐怖などで心が顛倒するようなこともなく死ぬであろう。その人は死んで、かの無量寿如来の仏国土である〈幸あるところ〉という世界に生まれるであろう。」

それぞれ、ひたすら念仏を唱えることに重点を置いた日本仏教の浄土宗と、阿弥陀如来の本願を信じる心に重点を置いた浄土真宗の思想の原点と思われます。