龍樹(ナーガルジュナ)の空性の定義は依存性(相依性)であり、何かに依存せずに生起したものは存在しないと説きます。そして、この空性を会得する者には全てのものが会得されるとします。逆に、龍樹にとっての本体・自性とは自立・恒常・単一なものであり、このようなものは存在しないと主張しています。
龍樹が説く相互依存関係の例として、これまで「原因と結果」をメインに紹介してきましたので、それ以外についても触れていきたいと思います。相互依存的に成り立つはずの関係を、本体の理論で考えると矛盾することを龍樹は主張していきます。
これは「行くものは行かない。行かないものも行かない」という言葉が有名ですね。行く主体と行く運動が同一であれば両者が一体となり、別異であれば行く主体なしに行く運動があり、行く運動なしに行く主体があるという不合理に陥ると、龍樹は同一性と別異性のディレンマに持ち込みます。
有部の本体(自性)の定義は「法体は1基体1(種)作用」でしたが、龍樹の定義ではこのようなものは本体(自性)に含まれません。あくまで、基体と作用が重複した現象世界のものなので、同一性と別異性のディレンマで龍樹は反論します。
認識対象(客体)が認識主体に基づいて確立されるにしても、認識主体そのものは何によって確立されるのか?と龍樹は主張しています。その認識主体aが認識主体bによって確立される場合、無限遡及に陥るのではないかと主張しています。龍樹は認識主体と認識客体(対象)の相互依存関係を説いているものと思われます。
単に依存し合っているというよりも、空性なるものは相反する複数の側面を有していることが分かります。量子論において、粒子である電子が粒子性と相反する波動性をも有していることが解明されました。それまで、我々は粒子としての電子しか観測できないため、電子の粒子としての一面しか見てこれなかったのです。このように、言葉・概念の形而上学にとらわれている者達は、物事をある一面からしか見れていないと龍樹は指摘していると思われます。