見出し画像

【短編】ドーベルマン




              1


 霧に包まれた深夜の森。どこまでも続く夜の闇に、陰鬱なひだを作る深夜の森。森はじめっとした無数の生命を内に抱えつつ、その巨体を真っ黒な無の中に横たえている。
 今夜そこには乱雑に乗り付けられ、エンジンがかかったままの2台のSUVがあった。古の森がその体内に飲み込んだ2つの異物。たんを絡ませながら低い音で呼吸している文明的な異物。そしてその異物からそれぞれ発せられたヘッドライトが交わって、二人の生きた男の姿を照らしていた。
「こんな具合なのかね?殺したり殺されたりする場面というのは」
 そう呟く男の手にはナイフが握られており、そのナイフ越し、男は不思議そうに目を細めている。
「うるせぇ馬鹿野郎。やりたきゃさっさとやりやがれ!あぁぁ、くそが!」
 ナイフの反対側で、もう一人の男が闇に吠える。彼は押し倒され、血まみれだった。その彼にナイフの男が馬乗りになっていて、殺す側と殺される側に分かれていた。上はこの後も生きる側で、下はこの後生きることを終える側。すでに出来上がったこの構図をひっくり返し、形成を逆転させることは難しかった。何故なら下になっている男が上の男に呼び出され、後からこの森に到着した時、物陰に潜んでいた上の男が飛び出し、バットで下の男の腕を一本へし折っていたからだ。そこで上下が決定し、殺す側殺される側、生と死についての配役の決着を見たのだ。
「そんな風に騒がないでくれよ。なんだか心苦しいじゃないか」
 ナイフの男は首を軽く横に振りながら、解せぬという表情を浮かべた。
「考えてみてくれよ。こんなに静かでこんなに不気味な真夜中の森の中に、俺達は二人だけでいるんだぜ?そんなことってあるか?もし仮に仲が悪かったら、二人だけでこんな所にいるか?」ナイフの男は微かに笑う。「とすればこれはひょっとして、俺達仲が良いのかもしれないぜ」
 霧とヘッドライトが陰影を乱す中、下の男は歪んだ憤怒の表情を浮かべ、答えた。
「何言ってるかわからねぇ!知ったことか!知ったことか!このくそったれめが!この悪党が!」
 そう喚かれたナイフの男は、考え込むような表情を浮かべた。
「おぉ…悪党…か…。俺が悪党ねぇ…」と呟いて眉を寄せる。「でも、なあ、俺は確信しているんだが、俺も生まれながらの悪党ってわけでは、さすがにないと思うんだ。生まれつきってことはないんじゃないかな。へその緒が直接、社会の外側に繋がってたわけじゃあるまい。へその緒を通して直接、罪がそそぎこまれたわけでもあるまい。なぁ、そうだろ?」
 押さえつけられ喚いていた男の顔に刻まれていた、曲線の向きが変わった。刻まれていた憤怒が別のねじれ方をして、嘲笑に形を変えた。
「ふははっ!まさにそれがお前じゃないか。お前なんて水ぶくれさ。生粋の穢れっぷりで、なぶられて踏み潰されるためだけに産まれてきたんだろうが!地球が出来上がった時からそこにあった、虫の湧いたきたねぇ水たまりみたいな奴さ!」
「えぇっ。そうかな?そうかな……」ナイフの切っ先を見つめながら、男は考えていた。「いやいや、そうとも言えんだろ。それはちょっと感情的になり過ぎた、妙な話だ。お前が俺のことを嫌いなのはわかるけどさ。なぁでも、少なくとも俺はお前がそんな奴だとは思っていないんだぜ。人様の平穏な日々に災厄をもたらすためだけに作られた存在だなんて全然思ってない。もちろん今のお前は、湿気たチンピラなんだろう。それはまぁ本当の話さ。だが元からそうだったかな?お前は元からそうだったのかな?」
 その時森の中、何処からか梟の鳴く声が聞こえてきた。ホー、ホーという虚ろな響きが、さらに虚ろな深夜の森を震わせた。黒い水面に黒い水紋が広がるように。
「おい聞いたか?今の。あの鳴き声は俺の話に対する同意かな?それとも適当な相槌かな?ハハッ!森っていうのはいいもんだな、こんな風にひそかな聞き手がいてさ」
「ふんっ…うるせぇよ。お前の言うことなんか、誰も聞きゃしないさ」下の男は腕の痛みに呻きつつ答えた。
「あの梟、獲物を狙ってるのかな?それとももう捕らえて、食ってる最中なのかな?なぁ、こんな暗い中でも彼らはねずみを捕まえるらしいぜ。ははっ、ちょうど今の俺達みたいな、こんな具合にさ」
 死んだような黒色をしていても、森はそれ自体、無数の目であり耳であった。血と肉の匂いを嗅ぎつける無数の鼻がそこにはあり、敵意を察知して産毛が逆だった皮膚で全身が覆われていた。そして男が握ったナイフが、薄笑いを浮かべる口であった。この真っ黒で巨大な森という首切り役人の、皮肉に歪んだ口であった。車のアイドリングの音が、ギロチンの落下を優しく催促するドラムロールのように、静かに響いていた。
「くっそ…。いいか馬鹿野郎。俺は金なんか持ってねぇんだよ。もう全部どっかいっちまったんだよ、とっくにな」
 腕を折られた男がそう呻く。
「え?ああ、そうだよな。そうだろうよ…。でもまあ、車の中にあるだけの物はもらっていくから、心配するな。そのへんはまぁ、忘れないから」馬乗りになった男は淡々と答えた。が、すぐに、「ああしかし!これじゃ無粋だよ!金の話なんかやめようぜ!そんなのやめた方がいい!何でもかんでも金金金だ!まったく、冗談じゃないぜ!」と言って大きく両手を広げ、拒否するように振った。
 その様を下から見上げていた方の男が、嘲笑で口の端をヒクつかせた。
「ふんっ。くだらない偽善者め、生まれながらの詐欺師め。金を奪いに来た奴がどうやったら無粋以外の何かになれるんだよ。金という言葉を出そうが出すまいが、この際同じことだろうが。なぁおいキ印、じゃあ聞くがな、それなら一体何の話ならいいんだ、え?女か?女の話か?なぁそうだろう?」そう言って折れていない方の手でナイフの男の胸ぐらを掴む。「そうさ!どういうわけか俺の隣に寝ていたことがある、お前の女の話をしたいんだろ?え?ハハハハハ!」
 ナイフの男は目を閉じて首を横に振った。胸ぐらを掴んできた下の男の手首をそっと掴み返し、ゆっくり、ゆっくり首を振った。
「そうじゃないよ。そうじゃない。そんなの論点にかすりもしない。今お前がその女のことに言及しなかったら、この先ずっと忘れたままだったさ」
 そう言って彼はもう一度首を振った。そんな話はしたくないという風に失望を露わにした。だがそのまま数秒おいた後で、何かをひらめいたような具合にくっと顎を引き、数回まばたきした。
「でも、でもそうだな…。お前がその手の話をどうしてもしたいっていうなら…ふふ、いいよ、付き合うよ。というわけでこちらから聞きたいことがあるんだが」
 男は掴まれた胸ぐらから相手の手をどけつつ、ナイフを斜め下に向けた。切っ先の延長線上にある地獄と男とを同じ串で刺し貫いてみせるように、斜め下に向けた。
「これを一突きすれば、お前も永久に女たちとおさらばだってことについては、何か思うことはあるかい?前回のいい加減なアレが最後だったってことについて、どんな風に思う?もうなし、まさかのアレでおしまい。ああ、あの時はこうなるなんて思わなかったよな。なぁ好色なお殿様、白い肌よサヨウナラってことについては、どう思う?あの香りも、感触も、息遣いも、この一突きですべてパァ!このとんがった先っちょをずぶっとやることによって、あらゆる湿った唇から無限に遠ざかろうとしている今の気分は、なぁ、どうだ!?」
 下の男の表情が固まった。同時に、呼吸が粗くなりはじめた。その胸は大きく上下し、目は動揺と絶望で痙攣していた。男の頭の中で動物的な肉の望みが黒く塗りつぶされていくにしたがって、逆に動物的な発作と雄叫びが赤々と、男の体からほとばしり出た。
「あああくそぉ!くそぉ!くそがぁぁっ!」
 獣の本能に突き動かされた男は、折れた骨の痛みも忘れたかと思うほど、逃げ出そうとして激しく体を揺さぶった。狂ったように叫ぶ下の男を見て、その予想以上の反応に面食らったナイフの男は、どういうわけか慌ててなだめにかかる。
「わ、待て待て!わかったわかった、悪かったよ!今の話はなしだ、な?どんなもんだか、ちょっと聞いてみただけだよ。お前が俺に意地悪なこと言うからさ、ちょっとやり返したくなっただけなんだ。それだけのことだから、もうこの話はやめるよ。OKOK、おしまいにしよう。そうしよう。なっ!?」
 死の運命から逃れようとする殺される側を、その運命の執行人である殺す側がなだめていた。立ち込める霧が夜の輪郭を崩すような具合で、生き死にや生殺与奪の構図の輪郭も、またぼやけていた。生命と滅びが時空を超えて絡み合い、それがひとつの塊となって横たわる、この深夜の森の只中で。

              2


 下の男が少し落ち着くのを待ってから、ナイフの男は続けた。
「なぁ、いいか?もう大丈夫だよな?なっ?うん、よし。俺が本当に重要だと思い、そして知りたいのは、金の話でも女の話でもなくこういうことなんだ。つまり、どうして俺達はこんなところに追い込まれたのか。俺達は人生のどの段階で足を踏み外して、こんな蟻地獄に放り込まれることになったのか。要するに何でこんな不名誉な決闘、身ぐるみの剥がし合いをするような事態に至ったかってこと。俺はそれが気になるんだよ。というか、それだけが気になるんだ」
 肉体の痛みと激情の発作の後に穿たれた精神の空白地帯に一時的に身を沈め、半ば放心している下の男は答えた。
「そんなこと知って何になる…。どうせどこかでヘマをしたんだろ。だからこんなことになってるんだ…」
「そうなんだよな、そうなんだよ」馬乗りの男はナイフを振りながら同意する。「なぁ、ドーベルマンっているだろ?あの見るからに強そうでかっこいい犬さ。あいつら、とても根が優しくて有能な奴ららしいな。だからちゃんと躾をすればかわいい奴になるんだな。だが、だがしかしだぜ。ちゃんと世話しないで放っておかれたらなかなかに凶暴な奴になっちまうこともあるらしい。で、そうやって荒くれ者にさせられたあいつらが一度人間に危害を加えると、人間たちはこぞって言い出す。『ドーベルマンってのは元々凶暴なんだ』と。『見て、あのいかつい見た目を。根っからの凶犬なのね』とかなんとか」
 下の男は視線を外し虚空を睨めつけつつも、ナイフの男の話を聞いている。
「運不運の分かれ目は何なのかな?真っ当とはずれ者の分岐点はどこにある?あ、さっき躾とは言ったがなにも俺は、話を家庭環境云々に限定してるわけじゃない。そうじゃなくてもっと広い意味での、時代とか場所とか、全部ひっくるめた意味での、人生とかいうこのいい加減なサイコロ遊びの話さ。不平等が支配し、公平性の欠片も見当たらない、苦しむ奴にとっては底なしの苦しみを無限に与え続けてくれる、この世というサイコロ遊びの話さ。そしてその遊びの結果としての、二種類のドーベルマンの話だよ」
 下の男は覆いかぶさる木々の天蓋に視線を突き刺したまま、低く抑揚のない声で答えた。
「…そんなふざけたサイコロ遊びなんかは、ハナからしないほうがいい。ハナからせずに済むのなら、絶対にしない方がいい…」
 それを聞いてナイフの男は「そう、そこだよ。そこなんだよ」と、大きく頷きながら応じた。彼は真剣極まりない面持ちで、首を上下させ続けた。深く深く納得するように。
 森という漆黒の生命は音のない咆哮を放ち、物陰に潜んだ獣たちの鼓動が木の洞を震わせていた。そして根っこという根っこが地の底に向かってじりじりと伸びる音が、耳を澄まさずとも、頭蓋の中に直接響いてくるようだった。夜は頭上から覆いかぶさると同時に、人間たちに穿たれた穴という穴から、這うようにして体内に忍び込んできた。
「ところでお前に聞いておきたいんだが。まぁ念のため、一応だがな」そう言ってナイフの男は切り出した。「お前は救世主じゃないよな?特別な能力を持っていたり、一部の人たちから異様に慕われているような、何ていうか、その手の大英雄じゃないだろうな?」
 それに対して下の男は答えた。
「何を言ってるんだ…。まったく意味がわからん」
「まぁいいんだ、いいんだ。もちろんそうだろうよ。だが考えてみてくれ。お前、ポンテオ・ピラトを知ってるか?」
 下の男は首を振る。
「うん、まぁそうだろう。ピラトってのはローマ帝国のユダヤ属州総督でな。彼が総督を務めていた時に、イエスを処刑したんだよ。彼がその判決を出したんだ。『こいつに死を』ってな。で、そのせいで彼は、やたら罪深い人間みたいに言われているんだな」
「…それがどうした?お前に何の関係がある?」
「うん、つまりはだ。お前がもし何者かであった場合、イエスほどじゃないにしろ只者ではない何者かであった場合、お前を殺すことは通常の殺し以上の意味を持ってしまうってことなんだよ。考えてみてくれ。ピラトに何ができた?他にやりようがあったかな?属州総督が任地で起きた革命騒ぎや反逆罪を放っておけるかい?もちろん、放ってなんかおけない。だから彼は対処したんだよ。属州総督としての仕事をしたんだよ。他の多くのローマの政治家や軍人と同じように、当時の価値観に照らして、やるべきとされていたことをやったんだよ。だが相手が悪かった!本当にツイてなかった!なんとまぁ、Jesus Christ!」
 そう一声叫ぶと、彼はおどけたようでもあり、同時に心から絶望したようでもある奇妙な面持ちで、手を払いのけるような仕草をした。何かの想念が彼に、付き纏っているかのようだった。
「というかそもそも、ユダヤ属州なんていう厄介な場所に赴任した時点で不運だよ。ローマには属州なんて他にも山ほどあったのに!そしてその上処刑した相手がたまたまイエスだったっていうんだから!そんな救いようのないサイコロの出目のせいで、二千年先までギャーギャー言われるんだぜ。ハハッ!なぁ、この不運の詰め放題状態、信じられるか?」
 ナイフの男は眉間に皺を寄せ、なんたることだという風にして再び、何かを払いのけるような仕草をした。
「お前はどうかしてる…。絶対な…」
「ああそうとも、それについては否定しないさ。だがな、そんなどうかしている俺が何よりもどうかしていると思うのは、この世の運不運のでたらめぶりなんだよ。その分配の偏り、その配給制度のいい加減さなんだ。ある将軍は反乱鎮圧の功績で銅像を建ててもらえたが、ピラトが似たようなことをしたら銅像どころか、その人物像に足払いをかけられた。21世紀になってもいちいち、その名前を挙げられている。そして俺達はたしかにドーベルマンだったし、真のドーベルマンになれたはずだが、いつの間にか妙なドーベルマンになっていた…。自分ではどうしようもないし知る由もない、ルーレット盤の上の決定事項によって…」
 そう言って少し間を置き、彼は自分の想念の中に沈んだ。過剰に繁茂した想念の中で這い回る何かを捕まえようとするように。前々から自分の言葉や理屈の間に見え隠れしている、気味が悪いが決定的な意味を持つ、その尻尾を掴もうとするように。そしてそっと夜気を吸い込んだ後、彼は下で呻いている男に問うた。
「なぁ、これをいつまで続けるんだ?お前はこの後も生き延びて、この宇宙の丁半博打に付き合い続けたいと思うのか?この巨大なカジノの親分にされるがまま、身ぐるみどころか生皮まで剥がされたいのか?そしてそれでもなお、『兎にも角にも、生きてるって素晴らしい!』とかなんとか言うつもりか?まさか自己啓発本か何かを読んで、『努力で変えられないものはない!』みたいな子供じみた標語を仕入れようってんじゃないだろうな。それでもって自分を騙した上で、無闇に延命したいってんじゃないんだろ?」
「…ふんっ。…もちろんこんなふざけた世界に付き合いたいとは思わねぇし、楽しかねぇさ、そんなもん。そこは同意してやるがな…。でも、お前に殺されるのはごめんなんだよ。この先も生き続けることが苦痛でも、お前に殺されるよりはマシなんだよ!」
「ああ…そうか。そうだよな…」
 そう言って上の男は考え込んだ。虚無と言うにはあまりに濃密すぎる暗闇が、同じく暗闇の彼の脳裏を包み、入れ子構造を形作る。答えのない問いに向かって無限に掘り進められる、尽きることのない迷路のように。だがそこで、思考を覆う靄の向こう側から、梟の声が再び響いてきた。ホー、ホー。野性と知性が混じり合ったかの如き響きの、ぞっとするようなホー、ホー。するとその時その梟が、彼の想念の中をサッと飛び、獲物めがけて舞い降りた。そして剥き出した鋭い爪で、彼の想念の中を這い回っていた何かの尻尾を掴んだ。この瞬間、彼は何かに思い至った。下の男と話している間もずっと彼の中で這い回っていた決定的な考えが、ついに闇の中から姿を現した。彼にはそれが天からの啓示のように思えた。
「ああ、じゃあこういうのはどうだ?」
 男はナイフの刃をつまんで持ち、柄の方を下の男に差し出した。彼の優位を支えていた道具を相手に差し出した。これにより先程まで下の男を貫いていたナイフの切っ先の延長線が、今度は上の男の胸を通過する形となった。
「ほら、取れよ。このナイフは骨折していてかわいそうなお前にやるよ。実のところ、俺は平等を愛してるんだ。もしかしたら、誰よりもな」
 ナイフの反転に合わせて、生殺与奪の構図もぐるりと回転した。確固としたものに見えていた生きる側死ぬ側の確実性も、ぐらりと揺らいだ。
「…何のつもりだ?」下の男は上の男を凝視しつつ、訝る。
「試してみようぜ。因果の連鎖の末に、こんな森にまで追い込まれた俺達のうちどちらが、まだこのスゴロクを続けさせられるのかを。天の意志を聞いてみようじゃないか。どちらを引き続きこの地上に留め、なぶりものにしておきたいのかをさ」
 下の男は驚きで口を半開きにしつつ、疑念の眼差しを上の男に向けた。
「まぁそんな目で見るなよ。さっきお前は俺のことを偽善者だって言ったけど、ある程度はその通りだ。それは本当のことだと思う。なにせ俺は正真正銘、他人から金を巻き上げてきた詐欺師だからな。だが、これは本気だ。このナイフは嘘でもなんでもない。もうこれ以上嘘を付く必要はなくなったんだ。さぁ取れ。お前と話せてよかったよ。話してみたら、改めて色々と確認することができて心が決まったんだ。ジタバタせずにこうするのがいいって、思えるようになったんだ。お前とこの森に感謝だぜ」
 下の男は警戒し体を硬直させたまま、この状況の変化を飲み込もうとしていた。
「だってそうだろう?誰が生きて誰が死ぬかなんてことは、この世の胴元に決めさせりゃいいのさ。というかもしかしたら、そんな事はもうとっくの昔に決めてあるのかもしれないんだから、こっちは黙ってカードをひっくり返し、その結果を見ればいいんだ。この世に嫌気がさしている俺が生き延びるかもしれないし、あと千年は生きたそうなお前が死ぬかもしれない。だが本当のところ、この世が嫌だろうが生きたかろうが関係ない。結局のところ、選択なんてのは人間には許されていないように見えないか?そう、だからやっぱり、悪党のへその緒は元々からして、社会の外側に繋がってるかもしれないってことだな。うん、お前の方が正しい。俺はさっきそれを否定しようとしたが、お前が正しいかもしれない。要はだ、ピラトは天地創造の瞬間からもうすでにピラトだったんだよ。サイコロはもう振られていて、永遠の昔に振られていて、運不運のチーム分けはもうすでに済んでいるんじゃないか?まぁ何ていうか『おお!偉大なる因果の鎖と、DNAの螺旋に口づけを!』ってな感じだな。だとすると、この巨大な賭場に入り浸り続ける運命なのは、なぁ、俺達のうちどっちかな?ほら、それを決めようぜ。というか、その結果を見てみようぜ」
 下の男は警戒を解かぬままゆっくりと、差し出されたナイフの柄を握った。そして自分の方に引き寄せ、上の男をじっと見つめたままナイフを構えた。
「そうだ、それでいい。これでまぁまぁ平等だろう。なぁ、どういうわけか汚れきるに至った二頭のドーベルマンのうち、どちらが今後も生き長らえるべきかなんてことは、言葉を用いた説明じゃ決められないだろ。どちらにその価値があるかなんて話を、論理的に組み立てることなんてできないんだよ。どちらがこの世に相応しいかなんて、どうやったら理屈で証明できる?なぁ、他ならぬ俺達のどちらかなんだぜ?何なんだよそのクソみたいな選択は?そんなことはできっこないんだ。ならば今こそ運の出番だろ?俺達をここまで引きずり回してきた、運不運の丁半にお出まし願おうじゃないか。全員が関わらなければならないという意味では平等だが、その結果に関してはこの上なく不平等な、運の出番だ。そして、そう、その運任せの決闘を行う舞台としての、この森の出番だ!」
 そう言って一度言葉を切り、彼は闇に包まれた森の体内をぐるりと見回した。あばら骨のような枝が、じめっとした霧状の消化液をまとって、呼吸するように揺れていた。その体内に獲物を飲み込み、太古の胃袋で溶かすのを待ちわびるように。
「見ろよ、この薄気味悪さを!そもそもここには論理なんてない、説明もない、言葉もない!そうした諸々が誕生する以前の姿だ!生き物本来の姿だ!原始的な命の奪い合いをするには、これ以上の場所なんてない!生き延びるか朽ち果てるかを決めるのに、こんな相応しい場所は他にはない!」
 口角泡を飛ばし、ほとんど叫び声のような大声で上の男は喋っていた。闇の中から傾聴しかつ凝視する無数の耳目を集めながら。その様をじっと見上げつつ、下の男は静かに身構えた。
「森よ、うごめく森よ!赤黒い血に飢えた幾千万の観客よ!さぁさぁご照覧あれ!そして他の誰より、この世界をどういうわけか回し続けているお方よ、ご照覧あれ!この世というルーレット盤の上でボロボロになった二頭の憐れなドーベルマンが、血しぶき上げて噛み付き合う様を!いざさらば、友よ!さぁ、始めようじゃないか!」
 そう言うと上の男は全身を強張らせ、血管を隆起させて獣のような雄叫びを上げた。それに応じて下の男が体を捻ってナイフに力を込める。と、すかさず上の男がそれに対し両手で掴みかかった────



 夜が明けた。立ち込める朝霧の中、SUVはまだ二台とも停まったままだった。そしてそのエンジンもかかったままで、アイドリングのドラムロールが静かに響き続けていた。陽の光は冷気を貫き暖めはじめていて、暗闇は追い払われて久しい。だが車に乗ってきた者たちは二人とも、まだ森の中にいた。昨夜から今朝にかけて、この森から出て行った者は誰もいなかった。
 これについて説明するに際し、
「主が二人の罪人に慈悲の手を差し伸べ、二人とも天国に連れ去った」
 そう言えたならよかったろう。または、
「神が一方の者を勝者として選び自らの側近くに置き、敗者にも安らかな眠りを与えた」
 そう言えたならよかったことだろう。もしくは、
「天の雷が二人の罪人に等しく落ち、この世には因果応報が健在だと示された」
 そう言えたならそれでも十分、納まりがよかっただろう。だが、事実はそうではなかった。事実は決してそうではなかった。事実としてそこにあったのは、超越者とは無関係に横たわる、二つの死体だった。慈悲も神罰も顕現せぬこの森で、ただただ物理的に噛み付きあった、二頭のドーベルマンの死体だった。
 ルーレットには勝者はおろか、主催者さえいなかった。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集