【明清交代人物録】洪承疇(その一)
今回は、日本ではほとんど取り上げられることのない明朝末期の人物、洪承疇を紹介します。
この人物は崇禎帝の時代の明の将軍で、当初農民軍の乱の平定に陝西に派遣されます。そこで成果を上げつつあったのですが、東北地方での満州族の乱に対応する様にとの朝廷の指示を受けて、東北地方に転戦します。
そこでは、清王朝と名を変え、本格的に王権交代を目指し始めた満州族の軍隊に敗北、洪承疇は囚われの身になってしまいます。
彼はここで、清王朝に協力する様に考えを変え、その後清王朝の征南軍の総指揮を取ることになります。後に呉三桂が現れ、山海關を開城し、清王朝の軍隊を中原に引き込むという歴史が有名ですが、これに先立って実に多くの明の人材が清王朝の元に降っています。その中でも最も大きな勢力を持っていたと思われる人物の一人が洪承疇です。
この人物に注目する理由
僕がこの人物に興味を持つきっかけになったのは、鄭芝龍編で述べた様に、清朝の征南軍の総帥として福建に攻めてくるこの人物が、晉江出身の進士、黃熙胤を伴って現れているからです。黄熙胤とこの様な関係にある洪承疇は、福建でも晉江のすぐ近くの南安県出身であり、とても深い地縁関係にあります。
これは小説的な想像ですが、晉江の黃熙胤は鄭芝龍のパートナーである黄家と縁戚関係にあったのではないかと考えています。中国では同姓は娶らずというルールがあるように、同じ姓であればある程度同族関係であることが多い。
黄家は自らの商売の未来を見据えて、明王朝の将来性をきちんと把握しようとしており、どこかの時点でこの洪承疇にアプローチしていたはずだと思うのです。それがどの様な経過を辿っているのかは分かりませんが、結果として鄭芝龍の招撫をするために、洪承疇が黃熙胤を伴って福建に現れている。そのことは確かです。
ですので、この福建出身の明朝の軍人として明朝の最高位にまで上り詰めた人物が、東北地方の満州族に敗北し、逆に清朝の元で軍人として働くようになったこと、そして清朝の漢民族軍団の総司令官となったこと。その経過を詳しく理解すれば、黄家が、ひいては鄭芝龍が清朝の元に降った理由も分かるのではないか。このように考え、洪承疇という人物に興味を持つようになりました。
泉州での幼少時代
Wikipedia中国語版での、洪承疇の幼少年期の紹介は次のようです。
「洪承疇は少年時代とても貧しく、子供の時から母親について豆干を売って生活していた。しかし、11歳の時に学業を辞めざるを得なかった。かつて雲南按察使を務めたことのある叔父の洪啟胤が、これを見て彼に同情し、《史記》、《三國志》、《資治通鑑》、《孫子兵法》などの書籍を使って洪承疇に学問の手解きをした。
明の神宗、萬曆四十三年(1615年)、洪承疇は挙人に合格、翌年北京に赴き会試に参加、進士の二甲、十四位となった。」
中国の科挙の試験はとても厳しいもので、合格するまでに何年もかかるというのが普通ですが、彼はとてもスムーズに合格しています。これは、彼の能力が優れていることもあるのでしょうが、そもそもこの福建という土地からは、とても多くの科挙の合格者が出ています。中国では南の地域での科挙の合格率が高いようです。そのような地方の科挙のための教育システムにうまく乗れたのでしょう。
洪啟胤
この叔父の洪啟胤のことを調べたところ、萬曆三十七年(1609年)に科挙に合格しているとあります。これは洪承疇が合格した 萬曆四十四年(1616年)と比べると7年しか違いません。とすれば叔父というよりも同世代の兄貴分から、科挙合格のためのノウハウを教えてもらったのかもしれませんね。
そして、この叔父が雲南の大理で知府となっているというのも興味深いです。後に洪承疇自身も北西の僻地、陝西で農民の反乱軍の征討に当たります。この様な中国の辺境における政治状況について、叔父の洪啟胤から何らかの教えを受けていたのかもしれません。
ここで叔父としていますが、この福建の南安県英都というところは、住民の90%以上がみな洪を姓としているそうで、実際の血縁関係がどれくらい濃いものかはよく分かりません。
また、南安県英都は泉州と晉江が沿岸地方にあり、海外貿易の最前線という場所なのに対し、かなり内陸部に入っています。そのため、商売の徒というよりも、他の生き方をする人たちであったのかもしれません。
「萬曆四十四年(1616年)に科挙に合格。成績優秀のため、山東省濟東での教諭に任命されました。その後、湖廣省棗陽縣の教諭に転任。北京の國子監で政治を学び、戶部主事となり、戶部郎中に進みます。その後、雲南省大理で知府に任じられます。そして短い間に雲南瀾滄道に任官,後洱海道に転任。その後雲南省の按察使に昇進し,左布政も兼任。
崇禎帝の末年に引退して帰郷しています。洪啟胤は、長期に渡り雲南の少数民族の地域で業務に勤め、地方財政管理の強化に当たり、農民の負担を軽減するよう努力しています。地方の制度改革を推推進して、雲南の地方社会の安定化に大きな功績をあげました。そのため皇帝から何度も叙勲されています。」
「崇禎一年の昇進の任命書では、この様に書かれています。洪啟胤は、雲南按察使に任じられている期間、辺境において「兵力を強化し盗賊を撲滅、河川の浚渫」作業を進めました。財政と食糧の管理においては「苦労を顧みず努力」し、「対人関係はとても厳正」であったと評されています。彼の妻である尤氏は、「貧しい生活に耐え、それは5年間変わることはなかった」し、「部屋に引きこもっては深夜まで裁縫仕事に励んでいた」そうです。これらのことから、彼は清廉潔白な模範的な官僚であったと言えます。また「良吏を残し無駄な人材を外す」ことをに勤め、官員のリストラを進め、人民の負担を軽減しました。明の朝廷はこの様な洪啟胤に従二位に当たる"通奉太夫"の称号を与え、尤氏を"恭人"の位を与えています。」
この様な叔父を持っているとすれば、洪承疇の政治的ポリシーも基本的にはこれに近いものであったろうと想像できます。民のための官僚、西欧的に言えば"noblesse oblige"を体現する様な人物であったのでしょう。
「洪啟胤は出仕する前に家に私塾を構え、書を教えています。建物の脇には用水路が流れていたため、この塾は水溝館と呼ばれ、明の時代の有名な学校の一つでした。彼は才能を見抜く力があり、貧しい家庭の子弟であった洪承疇を費用をとらずに学徒として迎え入れました。洪承疇は洪啟胤の指導の下、順調に学問を納めていきました。洪承疇が天下を治めるための抱負を書いた作文がありました。洪啟胤はそれを読んで大いに喜び、「家の馬が千里を走ることができれば、国は盤石である」と評しています。後に洪承疇は文武を治める清国の開国の重臣となっています。」
泉州での学業
この叔父洪啟胤が北京に上京し科挙を受けるとなったときに、彼は洪承疇を泉州に送り学業を続けるよう取り計らいました。通常この様な学校で学べるのは有力家庭の子弟に限られているのですが、洪承疇は身なりも貧しく、友人達は彼のことを、仲間外れにして見下していたそうです。しかし、洪承疇の学業における進歩はこれら仲間たちを大きく引き離すようになり、だんだんと頭角を現すようになっていきました。
23歳になったときに彼は第19位の挙人に合格、翌年進士の二甲、十四位となりました。