【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その一)
フレデリック・コイエットの家系は、そもそも南ネーデルラントから出ています。資料にはブラバントと書かれており、これは確かめるとブリュッセルを囲む地域です。フランソワ・カロンの出身地と同じです。
この時代のヨーロッパはオランダとスペインの間の80年戦争の時代で、スペインはフランスからネーデルラントに攻め込んでいます。そして当時は金融の先進地帯であったブリュッセルが戦火にまみれることになり、ネーデルラントの商業の中心がアムステルダムに移ってしまう。その様な時代背景の元、スウェーデンに避難する家も多くあり、コイエットもその様な家の一つでした。
フレデリック・コイエットには外交官として活躍していた兄がいたそうです。名をペーテル・ユリウス・コイエットと言います。法学を納め、外交官としてロンドンに勤務したというのですから、相当に優秀だったのでしょう。
この兄の比較的堅実な仕事と比べ、フレデリックはオランダ東インド会社という危険に満ちた冒険的な仕事を選んでいます。次男坊が奔放に生きるというのは洋の東西を問わない様です。
調べてみると、この兄ペーテルについてもWikipedia の項目が立っていました。そこそこに有名な人物のようです。
オランダ東インド会社に就職する
オランダ東インド会社の仕事は一攫千金を夢見る若者にチャンスを与えるもので、世界各国の人間が雇われていたそうです。その中でもスカンジナビア半島から来ている職員は多く、スウェーデン人は最も人数が多いグループでした。北欧の言葉とネーデルラントの言葉は親戚関係なので、外国と言ってもコミュニケーションは取りやすい間柄だったのでしょう。
会社に就職するにあたっては斡旋業者がおり、説明を読むと現代の発展途上国に先進国への出稼ぎを斡旋する人間がいるのと同じ様に感じられました。行った先のバタヴィアでどの様な生活が待っているのか、そこに至るまでの船旅がどれだけ悲惨なものかそれは知らせずに、夢だけを語りこの仕事への希望者を募る様です。
しかし、フレデリック・コイエットはスウェーデンからわざわざこのオランダ東インド会社の仕事に応募しています。これは上に書いた斡旋業者に誘われたのではなく、自ら進んで志願してきた野心的な人物だったのでしょう。
バタヴィアでの任務
コイエットは、1643年バタヴィアにやってきます。この時期は、バタヴィアでフランソワ・カロンが最も勢いを持っていた頃です。そこにスウェーデンから南ネーデルラントの移民であったコイエットがやってきました。ここでカロンはコイエットを自らの副官に抜擢します。次席商務長官という地位をいきなり彼に与えます。この時コイエットは弱冠23歳、同僚のオランダ人達にはとても羨ましがられたでしょう。
ここで、彼が与えられた仕事は組織のスリム化でした。現代風に言うとリストラです。コイエットはこの仕事で非常に実績を上げたと書かれています。しかし、これはカロンの指示のもとにコイエットは動いていたのでしょう。この人員削減という仕事をさせるのに、北ネーデルラントの人間では、縁故関係があるのでうまくいかないとカロンは考えたのかもしれません。その点、スウェーデンから来たコイエットは、人間関係に拘泥せず、カロンの指示通りの働きをしたのではないでしょうか。
バタヴィアに来た時点で23歳でしかなかったコイエットに、どの様な学歴やバックボーンがあったのか調べましたが、確かなことは分かりませんでした。しかし,この時の実績と後にタイオワン商館長を務めた際にも、業績を伸ばしていることから、商売のセンス、出費を抑えて収入を増やすコスト感覚に優れていた人物であったと思われます。
そして、この実績を買われ、日本に商館長として派遣されることになります。
スザンヌとの結婚
カロンがコンスタンチヤとの結婚をし、彼女をバタヴィアに連れてくるに際して、新婦の姉であるスザンヌもそれに同行しています。資料にはこの時点でスザンヌが婚期を逃しており、条件が悪かったと書いてありましたが、他にもスザンヌを1人バタヴィアに送ることの不安、姉妹の仲が良かったことなども理由なのでしょう。このため、バタヴィアには未婚のオランダ人女性が来ることになりました。
カロンはバタヴィアでこの姉妹を迎え入れ、彼の邸宅は美しいオランダ人女性が2人を加えて賑やかなサロンのようになりました。バタヴィアのオランダ人が好んでこの姉妹に会いに来るようになり、その中に若いコイエットもいました。彼はカロンと南ネーデルラントという共通の背景を持ち、副官として抜擢もされていたので、カロンからも特に可愛がられていたのでしょう。
カロンがタイオワンに商館長として赴任する際、妻のコンスタンチヤはこれに同行し、姉のスザンヌはバタヴィアに残りました。そして間もなくコイエットとスザンヌは結婚しました。共に後ろ盾としていたカロンがバタヴィアを離れたことで、お互いに支え合うような関係に発展したのかもしれません。
この結婚は、コイエットにとってはカロンというバタヴィアの有力者と緊密な関係を結ぶよすがとなると評されたそうです。
コイエットが日本に派遣されるのは1647年。長崎のオランダ商館には女性を同伴させることは禁じられていたので、スザンヌはバタヴィアに残されました。