【明清交代人物録】洪承疇(その十九)
ここから、清が明の残存勢力を倒し、中国全土の制覇を進めて行くフェーズに入って行きます。
初めに、この明の勢力のことを概観しておきます。この王朝を中国史では南明と言います。鄭芝龍が当初その軍勢を投入し勢力を拡大したのも、南明においてです。
この南明政権については、日本語ではあまりまとまった書籍をみることはありませんが、中国語ではとても多くの本が出版されています。これは、清という満州民族の政権に抵抗した漢民族の記録という意味が大きいからなのだろうと考えています。北京が李自成に落とされた1644年から、南明の最後の皇帝永暦帝が亡くなる1662年までの19年間の歴史です。洪承疇はこの間、中国の南部を清の勢力下に収めるための戦いを続けることになります。
南明政権の概要
南明政権の個別の出来事を説明する前に、全体を俯瞰して感じていることを先に説明しておきます。
まず感じるのは、明朝の末期の状態も同じですが、全体を統率して一つの動きにまとめるという求心力が非常に弱い。皇帝という権力のもとに中央集権体制をとることが明王朝の出発点であり、朱元璋がそのように王朝の運営システムを構築しているはずですが、この王朝の末期では、現実としてはそれぞれの政治勢力が各個に自己主張をして、全体が一つとしてまとまることができません。そのために、清朝により個別に撃破されていくことになります。
南明の各王朝でもそうなのですが、その後三藩の乱が起こり、漢民族の3人の藩王の清朝に対する反乱になっても同じです。これは皇帝のリーダーシップに欠けるということなのでしょう。強力なリーダーによるカリスマがあればうまく機能するのですが、そうでないとうまくいかないシステムになっています。
これに比べると、清朝の体制は皇帝の号令の元、各軍団が一つの動きをとっていきます。中央集権の体制が実を伴っている。その様な印象を持ちます。
もう一つは、これも明朝末期の組織上の問題と同じですが、読書人を中心とした官僚集団と武官集団、皇帝権力を傘にきた宦官達、これらの勢力が全く水と油で、協力し合う体制になっていない。それがために、南明の各王朝は、十分な実力を発揮する前に自壊してしまいます。味方に見捨てられるとか、一部が清朝側に寝返ってしまうということが起こり、次々に崩壊してしまいます。
弘光帝
弘光帝は北京の明王朝崩壊後、真っ先に擁立された皇帝です。場合期間は1644年から1645年まで。王朝は南京、明の副都で成立し、残存の明王朝の勢力をまとめることが期待されました。
しかし、この皇帝は福王と呼ばれる、非常に人気のない人物でした。明朝では、皇帝の子孫のうち、皇帝となる血筋から離され、地方の王として君臨する一群の血縁集団がいます。この皇帝となる目を摘まれた王達は、朝廷から膨大な支度金を受け、更に地方の土地を持つことで、裕福で自堕落な生活を地方で送ることが多くなります。
これらの王家の負担が明朝の財政を圧迫し、更に王朝の人気を落としていく訳ですが、その中でもこの福王というのは、特に評判の悪い人物でした。万暦帝の息子たちの中で、特に可愛がられていながら、皇帝になることのできなかった三男が福王でした。南明における福王弘光帝は、この人物の長男です。
この様なリーダーの元に、宦官の勢力である馬士英と、武官である史可法、文官である錢謙益らが協力できないという状態になります。これでは、まるで清朝に対して勝ち目がない。史可法は揚州で清朝に対して単独で戦いに挑み、殲滅されます。そして、弘光帝もすぐに捕らえられて北京に送られ、そこで亡くなります。わずか一年しか続かなかった短命の政権です。
隆武帝
隆武帝は、弘光帝と比べるとかなり骨のある人物である様に見えます。彼は崇禎帝が健在の時に、清軍に攻められている北京を救援に行こうと軍勢を仕立てて向かったことがあります。しかし、この行動を崇禎帝から反逆罪であると咎められ、牢に繋がれてしまいます。この人物が、弘光帝により恩赦を受け、弘光帝亡き後擁立されたのが隆武帝になります。根拠地は福建省の福州です。
後の経過からみると、隆武帝は宦官よりも官僚勢力に近い立場をとる人物だった様です。どちらかと言うと理想主義者ですね。この王朝では、黃道周という文官と鄭芝龍というこれは商人上がりの武人が勢力を争うことになります。そして、ここでもこの二大勢力は分裂してしまい、黃道周が孤立して戦うことになり戦闘に失敗して殺されてしまい、隆武帝も捕えられてしまいます。
魯王
弘光帝が亡くなった後、隆武帝と帝位を争ったのが魯王、朱以海です。この人物は隆武帝と帝位を争うことを避け、監国として浙江省を拠点に活動します。
隆武帝が滅ぼされた後は、鄭成功の軍の元に走り、鄭成功が永暦帝を正当な後継者と認めたために、そのまま監国として長く生きながらえます。
鄭成功は、明の皇帝家につながるこの魯王を手元におきながら、彼を皇帝にすることはしませんでした。これは、魯王を皇帝にしてしまうと、その意見を聞かなければならなくため、敢えて遠くにいる永暦帝を皇帝にし、距離をおくことで政治的なフリーハンドを持ったのだとも言われています。
南明の歴史の中ではあまり注目されませんが、鄭成功との関係では、とても特異なカードとして機能していた人物であると考えています。
永暦帝
鄭成功が反清復明を旗印に掲げ、清に対抗する姿勢を明らかにした時、明の盟主と仰いでいたのが永暦帝です。政権が設立されたのは広東省。ここから、最終的には雲南省まで、逃亡を続けながらも存続していきます。
この皇帝の時代は1647年から1662年までと南明政権では最長となっています。この様に勢力を長期にわたって維持できたのは、永暦帝側が優れていたというよりも、清朝側が剃髪令という漢民族の反感を買う政策を強制し始めており、そのため版図内の反乱を収めるのに精力を費やしており、南明征伐に集中できなかったからであると考えています。
また、この政権は農民反乱軍張獻忠の残党である李定國を配下に迎えており、この軍事力を取り込むことにも成功しています。この人物はなかなかの軍事的才能を持っており、清朝を悩ませていきます。
鄭成功も福建の地で反清復明の狼煙を上げ、北伐を開始します。
しかし、この李定國と鄭成功の2つの軍事勢力は、共同歩調をとることはありませんでした。李定國の勢力が最大であった時、鄭成功がこれに呼応する様な戦闘を福建で行っていたら、南明の勢力範囲は更に拡大していたかもしれません。
洪承疇は、これら南明政権を一つ一つ討伐していくことになります。結論を先に言っておくと、弘光政権はドルゴンの弟ドドによって崩壊し、隆武帝と永曆帝は洪承疇の手により滅ぼされます。魯王は鄭成功に従って台湾に渡ります。
次回以降、この経過を詳しく説明していきます。