清朝末期の民族大移動
最近、中国から日本への移民が増えているという記事を読んで、家内にその話をしました。1人が足がかりを見つけると、一族郎党、みな芋蔓式に日本にやってくる。そんな移民が増えつつあるという記事でした。
日本も、大変な移民の時代になったねと彼女に言ったら、「中国は昔からそうだよ。自国から家族ぐるみで国外に逃げ出すことはよくある。清の時代の移民だってそうだ」と言われました。この言葉の裏には、台湾にやってきた国民党政権の人々のことも念頭にあったのかもしれません。
現代のエクソダス
先日、台北の不動産系駐在員の食事会に参加した際、日本における中国人投資家の話を聞きました。日本の高額不動産物件を、ごそっとまとめて買っていく中国人の資産家を相手に、不動産仲介の仕事をしているのだそうです。余りにもたくさんの声がかかるので、〇億円以下の予算では、相談に応じないという、とんでもない金額の商売なのだそうです。(○の中の数字は、ご想像下さい。)
先日、台湾の不動産バブルについての記事を書きましたが、中国では既に不動産バブルが弾けてしまっていて、中国国内の不動産購入にはインセンティブが働かず、資金が国外に向いて動いているのでしょう。そのターゲットの一つが日本だということですね。今年のゴールデンウイークに行ってきた、カナダのバンクーバーでも中華系の不動産投資と人口の流入は、とても盛んな様子が伺えました。
一方、不動産投資とは別な視点での日本への移民のニュースも増えています。家族のうち誰か一人が技術移民や投資などでの日本の移住の権利を取得すると、その人間の直接の家族だけではなく、関係する親戚一同も一緒に日本にやってきて暮らし始める。
ほかにも、日本の医療サービスを目指して、やってくるという様なニュースもありました。中国での就職が思う様にいかず、海外に仕事のチャンスを目指す。その様な動きもある様です。
中国の不景気というのは、よその国の出来事、自分達とは関係ないと思っていたのが、実のところ様々な形で日本の生活環境にも、中国人の動きが現れている様です。
台湾では、馬英九の時代の中国人の膨大な流入に危機感を抱いて、ひまわり運動が起こり、民進党への政権交代が起こって以降、中国との経済関係は冷え切っており、中国からの投資や移民が厳しく制限されています。そのため、日本で聞かれる様な無秩序な中国からの投資や人の流入は起こっていない様に思われます。
一方日本では、中国からの観光客を積極的に呼び込み、投資を募り、労働市場も解放する。その様な、基本的にオープンで、中国人の様々な活動を歓迎するというスタンスをとっている。その結果なのでしょう。
そして、中国に見切りをつけた資産家や、高学歴の知識人達が、大挙して国外に発展の機会を求めている。その様な状況なのだと感じています。
この人口は、中国の人口にとってはごく一部かもしれませんが、母数が14億人と膨大な数のため、大変な人数が実際に国外への移動を図っているのでしょう。
ひまわり運動についてのWikipedia の記事
清の時代の中国移民
家内は、この状況を清朝末期の、アメリカにたくさんの労働者が移民として移って行った歴史と似ていると言いました。
アメリカに中国人が大挙して移っていったのは、西海岸のゴールドラッシュと、東部から西部に向かう鉄道建設のためと聞いています。サンフランシスコは、中国語では"舊金山"と言い、その時代の息吹を残した地名です。
この現象は、歴史を学んだ際、中国の国内事情とは切り離して、アメリカ側の事情で中国人が移民としてやってきたと学んでいましたが、よくよく考えると、この時代の清朝はかなり混乱しているので、国内では生計を立てられず、仕方なく国外に活路を求めたという動機もあったのでしょう。
19世紀の中国、清朝の時代は最盛期を過ぎていました。アヘン戦争から太平天国の乱、更に西欧の列強から半植民地状態にされ搾取されるという、王朝崩壊に一歩ずつ歩みを進めている時期でした。この時代の政治的変遷は、歴史として学ぶことができますが、そこで生活していた民衆の苦しみにはなかなか想像が及びません。
辛亥革命を起こした孫文が、民衆の苦しみを治すためには、この時代では医者となるだけでは不十分だと、清朝打倒の革命運動を起こすわけですから、一般民衆の生活も困窮を極めていたのだろうと想像できます。しかも、孫文が暮らしていたのは、中国の中でも比較的裕福な広東省です。内陸の貧しい地方では、その貧困はさらに輪をかけたものになっていたでしょう。
そんなことを考えると、19世紀に多くの中国人が"苦力"となってアメリカに渡ったのには、アメリカ側の事情だけではなく、中国人側の中国から逃げ出したいというモチベーションもあったのでしょう。
中国国内の国粋主義的傾向
ここ数年、習近平政権になってから、自国の愛国心を高め、外国を排除する動きが高まっています。それは、外国にいてさえ中国国内で行われる国粋的教育の内容を確認でき、危機感を感じる様なものです。テレビドラマでも、日中戦争時の日本軍の行動がとても残虐なものであったとされ、外国に対する敵愾心を煽る様なものになっています。
この、自国の愛国心を高め、外国を排除するという事態も、清朝末期に現れています。"義和団の乱"と呼ばれる事件です。
この事件では、清朝のトップであった西太后が、西洋の排除を政治的スローガンに掲げる義和団を、取り締まるのではなく、彼らの活動を黙認したために、国家間の戦闘にまで発展してしまった事件です。
この事件のことを学んだ時に、清朝は何を馬鹿なことをしたのだと初めは思いましたが、よくよく考えると、日本も明治維新の際によく似た事態に陥ってます。
明治維新を進めた政治的スローガンは"尊王攘夷"です。天皇の権威を尊び、外夷を打ち払う。この様な国粋的な政治思想でもって、江戸幕府を倒そうとしていたわけです。しかし、日本人はある時点でこの"攘夷"は現実的でないと気がついた。それは、薩摩藩と長州藩の起こした、薩英戦争と下関戦争であったと聞いています。
明治維新をリードした薩摩と長州の二藩は、この戦争を通して外国人を打ち払う攘夷の政策を、もっと現実的な外国の技術を導入して彼らと協力し、この勢力を利用して江戸幕府を倒すという方針に変えました。日本は、小さな傷を負っただけで、現実路線に方向転換をすることができました。ある意味、変わり身が早いとも言えます。
一方の清国では、義和団の乱で民衆が諸外国と争いを引き起こしてしまい、政府がそれを黙認していたため、列強八カ国による中国国土への軍隊の進出を許し、賠償金を支払い、さらに外国の軍隊の駐留を認め、外国人居留地を認めさせられるという、過酷な代償を支払うことになります。
この120年前に起こった、中国の国粋的傾向に端を発した事件は、中国を危地に落とし入れることになりました。
現在、中国国内で起こっている愛国的、国粋的運動の結末は、現在でも中国に有利な方向に進むとは思われません。清朝が義和団の乱の取り扱いを間違った様に、中華人民共和国がこの傾向を抑制ではなく、助長する方向に動いているというのは、過去のこの歴史から見て、とても良い結果を生むものではないだろうと考えています。今のところ、まだ理性的に対処されていますが、だんだんとエスカレートしていくと、どの様な事件が勃発することになるのか、想像するのも難しい問題です。
崩壊の時代の前奏曲なのか
中国の歴史を学んでいると、基本的にとても巨大な国だからなのでしょう、全盛期を過ぎて衰退期に入っても、国が倒れるまではとても長い時間がかかっていることが分かります。
それは、まるでヘビー級のボクサーが一発のパンチでは倒れず、打たれても打たれても立ち続けている状態の様です。最後に彼を倒す一発はありますが、それはそれまでに費やしてきたダメージの蓄積があって初めて倒すことができる。この巨体を倒すにはそれだけの量のダメージを与え続けることが必要なのでしょう。
清朝に、最初のダメージが起こったのは1840年の"アヘン戦争"でしょう。そこから1911年に辛亥革命で清朝が崩壊するまでに、半世紀かかっています。
途中、ボディーブローの様に効いてくる事件には、次の様なものがあります。
1840年:アヘン戦争
1851年:太平天国の乱
1856年:アロー号戦争
1884年:清仏戦争
1894年:日清戦争
1900年:義和団の乱
1911年:辛亥革命
この間、清朝内部でも様々な改革の議論が起こり、新しい時代に対応した組織に変容しようと試みられますが、その様な運動はどれも中途半端に終わり、最終的には孫文に率いられた革命運動により、清朝は崩壊することになります。
現在の中華人民共和国が、19世紀末の清朝と同じ様な運命をたどるとまでは僕は考えていませんが、一つの現象として、国民が中国国内での生活に絶望を感じて国外に脱出を試みていること。その一方で、中国国内で愛国/国粋主義的な運動が高まり、排外的傾向が強まっているというのは、確かに19世紀の清朝の歴史に似たところがあると思います。