【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その三)
コイエットは、バタヴィアに戻った後すぐにタイオワン商館に副長官として派遣されます。これはタイオワンと長崎の業務が関連していることから、双方の仕事に通暁するようにという、バタヴィア本部の配慮なのでしょう。
ここで、コイエットはタイオワンのオランダ商館の現実に直面することになります。それは、中国大陸の鄭家軍、台湾の漢民族の移民、そしてオランダ東インド会社の内部組織の全てに関わる問題であり、後に彼が最後のタイオワンオランダ商館長となる運命に直接つながっていきます。
商館長フェルブルフとの確執
第10代のタイオワン行政長官ニコラス・フェルブルフとコイエットは同じ1649年にタイオワンに派遣されています。フェルブルフはこれより以前ペルシャの商館に3年間派遣されています。その後バタヴィアに戻った後、オランダ東インド会社本部の要請によりタイオワンに派遣されます。
当初会社側はこの人物に高い評価を与えていました。「勤勉で実力のある職員で信用に値する人物。ペルシャでの実績から判断して、彼はタイオワンでの任務を十分にこなすことができるであろう。」という評価でタイオワンに送られています。
しかし、この人物がタイオワン商館の組織内で問題となってしまいます。
きっかけは、タイオワンにおける東インド会社職員とプロテスタントの牧師との感情問題です。当時の牧師は一部の人間が商業の利益を重視して、聖職者としての仕事よりも、金儲けを果たして布教活動もそこそこにオランダに帰ってしまうという例が後を絶たず、フェルブルフはそれを苦々しく思っていました。そして、彼はタイオワン管区のニコラウス・グラヴィウス牧師に対して罷免の処分をしてしまいました。このグラヴィウス牧師は、これより以前検察官ディルク・スノックの不正に不満で、彼との同席を拒むという行動に出ており、東インド会社側と教会側での感情面での対立が起こっていました。
この問題を行政長官として引き継いだフェルブルフは、この対立を解決する方向ではなく、牧師側に対して厳しい態度で臨みました。そしてこの問題は台湾の地方組織で決着を見ることができず、バタヴィアに判断を求めることになってしまいます。オランダ東インド会社の本部は検察官として特使ヴェルステンゲンを派遣、タイオワンの地方組織の実態を詳しく調べることになりました。
この時、副長官であったコイエットは上席商務員兼副長官の立場でこの事件の審議に関わりました。そして、特使ヴェルステンゲンは行政長官フェルブルフからコイエットのことを「反抗的で愚鈍、役立たずの副官」との報告を受けています。ですので、コイエットはこの時に商館長よりも牧師側の立場に立って行動していたのでしょう。
しかし、タイオワン商館内でトップと副官がこの様に明白に対立してしまっては、組織として有機的な活動を望めなくなってしまいます。
事件の決着
そしてフェルブルフは、後にこのバタヴィアからの特使に対しても牙をむいてしまいます。本来、この様な中央からの特使はタイオワン行政長官よりも立場が上で、行政長官は特使の判断に服さなければなりません。こうなっては特使の判断は、フェルブルフに対して厳しいものにならざるを得ません。この問題は、最終的にはフェルブルフによる牧師罷免の命令は無効という決着となります。これは行政長官フェルブルフの面子を大きくつぶしてしまうことになりました。
バタヴィアにおいてこの判断がフェルブルフに対して示されると、彼はそれに服さずこの特使の判断に反駁する報告書をバタヴィア中央に対して上げます。
とは言え、彼は1653年までこの職を続けており、その末年に郭懷一の乱に遭遇することになります。
この事件の原因は、多分にフェルブルフの個人的な資質にあると考えられますが、後にこの人物がオランダ東インド会社で影響力を発揮し続けたために、コイエットに対しては厳しい対応をとることになります。これが、タイオワンのゼーランディア城が孤立してしまう遠因となっています。
この聖職者が商売に走るという傾向は、イエズス会の組織にも見られます。彼らは布教活動に対してポルトガル王からの援助を十分に得られていないので、経済基盤が脆弱でした。そのため、日本に対しての布教活動を維持するために、マカオと日本の間の貿易を牛耳って商売に勤しむようになります。彼らとポルトガル商人の間でも、このオランダ東インド会社と同じような確執はあったのでしょう。しかし、日本の政府に深くかかわり、貿易の主導権を持っていたのが逆に聖職者側であったので、この様な形での確執は起こらなかったように感じられます。
それと比べると、オランダにおける商売の主導権は東インド会社側にあり、タイオワンの聖職者側は相対的に経済的には厳しい状態にあったのでしょう。
そんな中、東インド会社側に厳しくされてしまうと、彼らの生存に関わる大きな問題となってしまう、それが現実だったのかもしれません。そして、大局的にはそんなタイオワンの聖職者の立場を守るというのがバランスの取れた判断だったのだと思われます。
バタヴィアへの帰還
副官としてのコイエットがいつバタヴィアに戻されたのかは、手元にある資料からは確かなことは分かりません。しかし、フェルブルフが1653年までタイオワンで職務についていることから、この上司と対立してしまったコイエットは、恐らく上記の牧師罷免事件の審査が落着した1650年ころには、タイオワンを去っていたと考えられます。
この1650年というのはコイエットの後ろ盾であったフランソワ・カロンが東インド会社を辞職した年でもあります。もしかすると、このこととコイエットがタイオワンからバタヴィアに戻されたことも関係しているかもしれません。
1652年10月に、コイエットとスザンヌの長男バルタザールが生まれています。ですので、彼はこのタイオワンから戻り、再度長崎に派遣されるまでの短い間を、妻のスザンヌと仲睦まじく、つかの間の幸せな日々を送っていたのでしょう。
しかし、残念なことに、息子を授かった直後1652年11月に、コイエットは二度目の長崎勤務に派遣されてしまいます。
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