【明清交代人物録】鄭芝龍(その九)
ここでは、台湾にとっての鄭芝龍の関わりを見てみます。作家の湯錦台氏は、"開啟台灣第一人"として鄭芝龍のことをその視点から非常に高く評価してしています。その経過を詳しく検討してみましょう。
李旦の時代
李旦は元々福建漳州月港とマニラの間の交易をメインとしていたと考えられます。それが、マニラの華僑に対するスペインによる虐殺が起こり、日本の平戸に拠点を移した。このような経過を辿って福建、マニラ、平戸の三角貿易のきっかけが生まれます。
そこで注目されることになったのが台湾です。この3つの地点のちょうど中間の場所に台湾がある。この三角貿易の中継基地として李旦は台湾に注目したのでしょう。そしてここに代理人として顏思齊を置いた。場所は笨港と言われています。嘉義の沿岸部になりますね。
しかし、この時点で鄭芝龍は台湾にそれほど深く関わっているとは考えられません。マニラからは平戸に直行しているようですし、李旦の指示で、オランダとの通訳のため澎湖に派遣されています。台湾には立ち寄ったことがあるくらいのことだったでしょう。
オランダの遊撃隊の時代
オランダの元で彼らの遊撃隊として海賊を働くとなると、鄭芝龍は台湾のゼーランディア城に出入りする機会はあったでしょう。そして、台湾で李旦や顏思齊の残党と接触することもあったに違いありません。台湾に上陸していたことは充分に考えられます。
オランダ東インド会社の台湾統治は、直接台湾の中国人や原住民に対して行われていたわけではなく、彼らの頭領に対して指示を出すような形になっています。ですので、台湾におけるオランダ人の支配が及んでいる範囲はごく限られていて、大部分は間接統治の形になっています。その中国人社会に対して、この段階で鄭芝龍は足掛かりを設けていたのでしょう。そして台湾におけるオランダ統治の実態、中国人社会のあり方について理解を深めていたのでしょう。
独立勢力となってから
オランダから離れた段階では、鄭芝龍の根拠地はタイオワン以外の台湾沿岸部になったと考えられます。海賊を働いている段階で福建の土地に根を下ろしていたとは考えららません。
そうだとすると嘉義の沿岸地域が有力でしょう。オランダ遊撃隊の時代の人脈をそのまま生かしていたと思われます。
明王朝の軍隊となってから
明朝の海軍を倒してしまい、厦門の港を有した段階で、鄭芝龍は福建の足がかりを設けることができます。この時から泉州安海が鄭芝龍の根拠地となります。そして厦門、漳州、泉州、福州の港を傘下におき東シナ海の制海権を得るわけです。
こうなると、台湾は根拠地ではなく貿易の中継基地という位置付けになります。この時点でオランダが統治しているのはゼーランディア城を中心とした点の支配でしかなく、台湾全土には原住民の王権が残っています。そして各地には中国人の支配する港が残っていたと考えられます。
福建からの移民
そして、この福建を根拠地とし、台湾にも足がかりがあるという状態で、大規模に福建からの移民を行い始めます。
これは、まずオランダ側が台湾の土地を開発するための農民としての労働力を欲したこと、福建の側では飢饉が発生し、人口を減らしたいという動きがあったこと。この両者の欲求を踏まえて、福建から台湾への移民を鄭芝龍が組織していくことになります。
この大量の移民が、台湾における漢民族王朝成立の基礎となっていくわけです。
開啟台灣第一人
この後、鄭芝龍の運命は暗転していきます。しかし、台湾における漢民族の勢力拡大のきっかけとなっているのはこの鄭芝龍がアレンジした、福建から台湾への組織的な移民政策です。そしてそれを以って、湯錦台氏は鄭芝龍に対し開啟台灣第一人,台湾開発の第一人者と言っているわけです。
それは、オランダと福建の地方勢力の間でお互いにメリットとなったウィンウィンの政策でした。だからこそ、多くの中国人が台湾に移ったわけだし、このことに反対する勢力もなかったわけです。
しかし、鄭芝龍はこのレールを敷いた後、台湾に戻ってくることはありませんでした。明朝の崩壊、南明王朝での奮闘を経て、最終的に清王朝の囚われの身となってしまい、最後は中国の東北地方に幽閉されてしまいます。
そして、台湾に戻ってきたのは息子の鄭成功でした。この息子によるオランダからの台湾奪回には、台湾の地元の中国人の協力が不可欠でした。その点からも、鄭芝龍の敷いた台湾への大量移民政策が台湾の漢民族王朝を開いた礎となっているという評価は、妥当なものであると思います。
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