【明清交代人物録】洪承疇(その十八)
ここで、僕がこの人物に興味を持つきっかけとなった、晉江の黃家が洪承疇にアプローチして、明朝の行く末を占っていたのではないかと言う想像について書いてみます。
政商
中国の封建時代の商売というのは、皇帝専制政治の元で行われるとても人治的要素の強いものでした。ですので、商売を行うためには地方政府から中央政府、表に出てくる官僚、その裏で暗躍する宦官と東廠(秘密警察)との繋がりを保つ必要があります。彼らに賄賂を贈り、様々な便宜を図ってもらえる様にしておく。その様にしないと、いつ自分達の商売が足元からひっくり返るか分かりません。
この様なことは、現在の中国でもまかり通っていています。中華人民共和国は、法治ではなく共産党の指導のもとに運営されている人治国家であるとも言われています。
この様な意味で、封建時代の商人は政治との繋がりを密接に保った政商でした。それは、生存のためには必要なあり方であったでしょう。
この様な政治との関係を保つ最も有効な手段は、同じ地方の政治家と関係を持つことです。同郷の読書人が科挙に合格し、地方の役人になる、さらに出世した中央の役人になるというのは、商人にとってはとても有効なコネを持つことになります。
この様なコネクションがあれば、中央政府の指示してくる制度改革や増税、派遣されてくる役人に対する対応など、様々な課題に対して事前に準備をしておくことができます。
福建の進士達
明の時代全般に渡って、科挙に合格し進士となる人物には、中国の各省の分布に隔たりがあります。その中で、福建出身の進士は最も高い比率になっています。福建の人々は自ら読書人を育て、官僚を中央に送ることに非常に熱心でした。
その理由は何処にあるのか、詳しいことは分かりません。
印象で話すと、福建省が陸の孤島と言えるほどに、中国の中央から遠いこと。中原と呼ばれる地方が、平地部に広がっているのと比べると、福建の土地は山に遮られて別の世界と言っても良いほどになっています。そのためより太い中央とのパイプが必要だと考えられたのでしょう。
また、福建の言葉は中国語の方言の中でも最も北京官話から遠いとされています。英語とドイツ語以上に異なった言葉と考えられています。その様な言語の違いから、音ではなく文字でコミュニケーションをする方向にシフトしていたのかもしれません。そもそも科挙の試験は文章を書く能力を確かめるものなので文字に頼るものではありますが、実際に会話が成立しないほどに異なった言葉を話しているとしたら、この文章への依頼度は更に高かったでしょう。
もう一つの理由は、福建省は元の時代、モンゴル軍の影響下で、世界を対象に貿易を営んでいたのですが、明の政策で海外貿易の道を閉ざされてしまっていたことです。そのため、この海外貿易を再開するというのが福建商人の悲願になります。それは1567年になってようやく、漳州においてマニラに対する交易を許可されるという形で実現します。この様に、中央政府の政策を変更させるために、影響力を行使できる様、多くの官僚を送り込んだのではないか。
この様な、いくつかの推測をしています。
黃熙胤
鄭芝龍を清朝に降らせるにあたり、洪承疇と共に現れたのは黃熙胤という人物です。出身は晉江。同じ黃の苗字を持つ家であることから、有力商家である黃家とは何らかの関係を持っていたと考えるのが自然です。
この人物が進士に合格するのは1630年なので、洪承疇より一回り以上年下の世代になります。そうであるならば、この黃熙胤は同郷の進士の先輩で、中央政界で活躍している洪承疇に何らかのコネクションを持っていたでしょう。
晉江黃家
その様に、商人と官僚の互恵関係で社会のシステムが動いている中で、福建晉江の黃家はどの様な対策をとっていたのでしょう?
なお、鄭芝龍とこの晉江黃家との関係については、下記の投稿で説明しています。黃家が晉江の有力な商家であり、彼らが新興の鄭家との協力体制を敷いて、勢力の拡大を図ったのではないかということです。下記の記事を参照ください。
先に述べた様に、同じ晉江の進士に黃熙胤がいます。この人物とは同郷同姓のよしみで、自然な関係を持っていたでしょう。
そして、洪承疇が次第に官位を上げて明の中央政界で活躍している時期には、この黃熙胤を通じて、或いは独自の伝手を使って彼にアプローチをしていたのではないでしょうか。陝西で大きな軍功を上げ、瞬く間に時の人となった洪承疇に対し、黃家は積極的な関心を示したはずです。同郷の人物が中央政界で出世したのであれば、それにあやかりたいと考えたでしょう。
洪承疇の軍隊の強さのバックボーンには、彼の部隊は私家兵、自らの資金で養い、国庫からの資金を要さない軍隊であったもしれないと書きました。その様な軍隊であったのならば、その資金は晉江や泉州の有力商人からでていたはずです。
鄭成功の時代に、彼の商業組織は山五商と海五商により構成されていたと書かれています。この様な組織は、鄭成功とその父親、鄭芝龍が持っていたものですが、その原型は晉江の大商人であった黃家が使ったものでしょう。この組織を後の鄭家軍が受け継いでいたものと考えられます。
このうち山五商が中国国内の5つの地方に展開していた下部組織でした。その都市は、北京、蘇州、杭州、山東と書かれた資料がありますが、もう一つ加えるとするとマカオになるでしょうか。このような都市に出先機関を設けて商売をし情報収集していたとすれば、このうち北京の支店は陝西における洪承疇の動きをフォローし、合わせて農民軍の反乱の様子を把握していたでしょう。洪承疇が北京に凱旋してきた時には、そこに駆けつけ祝杯をあげていたかもしれません。同郷の政治家が指導者として大成して帰ってきたのです。何の祝い事もないと考えるのは不自然です。
洪承疇が東北地方に送られると、山東の支店がサポートについたでしょう。山東は中国東北に対する、物資補給基地の様な土地です。山東は遼東半島から渤海湾を隔てており、比較的に安全です。そして海で中国の南部と繋がってます。
山海關が落ちる前に、渤海の皮島で活躍した毛文龍という人物がいますが、彼は南部の杭州の出身です。この人物は杭州の実家の支援を受けて皮島で動いています。
この様に、地理的には遠い中国南部と渤海湾ですが、船を使えば沿岸航海で容易に多くの物資を輸送できます。そのためこの2つの地域は密接な繋がりを持っていました。そうであったならば、黃家はここからも洪承疇の動きをフォローできたはずです。
しかし、洪承疇が清軍に囚われの身になると音信は途絶えてしまいます。洪承疇は自殺したと噂が流れます。そして、北京が李自成に落とされ、それに引き続き山海關がドルゴンに落とされ李自成は敗退し、北京が清朝なものになるという、急転直下の事態が起こります。
商人であった黃家にとっては、自らの商売の行く末が何よりも大切であったはずです。そして、そんな時に北京で活躍している漢族の大物が洪承疇であると耳にするのです。北京の黃家の番頭は、この知らせを知り、真っ先に洪承疇に会いに行ったのではないでしょうか。そして旧知を温め、今後の協力を申し入れたでしょう。
そして、この様な下準備を整えた上で、晉江の黃熙胤が洪承疇の元に出向き、中国江南、福建地方に対する清軍の招撫活動への全面的な協力を申し出た。この様な事態の進展を考えています。
これらのことは、全くの想像でしかありません。しかし、なんらかの道筋があって、この同郷の2人の人物が関係を持ち、協力する間柄になったというストーリーを考えると、この様な可能性が考えられれます。