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【明清交代人物録】洪承疇(その二十六)

ようやく、このシリーズで整理したいと考えた部分にたどり着きました。鄭芝龍が、どの様にして隆武王朝を見限って、清朝に寝返ったのか。その際、洪承疇はどの様に関わったのかという問題です。鄭芝龍はこの様な判断をしたがために、歴史的には忠義心のない海賊上がり。息子の鄭成功が民族の英雄となって歴史的評価がとても高いのに対し、政治的判断を間違えた失敗者と見られています。

さて、南明政権二代目の隆武王朝はどの様な政権だったのでしょうか?

隆武帝

南明二代目の皇帝である隆武帝は、一代目の弘光帝と比べるとよほど気骨のあった人物と評されています。
崇禎帝の時代、後の隆武帝である唐王朱聿鍵は、農民軍の反乱に対応して北京を救おうと兵を起こして北京に向けて出兵しました。しかし、崇禎帝はこれを王朝に対する反乱と見なし、朱聿鍵を幽閉してしまいます。明朝の問題はこのようなところにも現れています。組織内の人的資源を有効に活用できていません。

南明の弘光王朝の時代に至り、朱聿鍵はようやくその罪を許され、幽閉先の鳳陽から南京に向かいます。しかし、その途中で弘光帝は南京で清朝に殺されてしまい、行き先を失っている時に、鄭芝龍の弟である鄭鴻逵に保護され、福州に連れてこられます。そして、この地で隆武帝として南明王朝第二代の皇帝に立てられるのです。

この隆武帝の事績については詳しくは調べられていませんが、その経歴から、帝王教育を受けているわけでもなく、政治家としての実績があるわけでもない。明王朝が崩壊した後に、その皇帝との血縁の濃さから選ばれたお飾りでしかないように思われます。明朝初期の、政治的リーダーシップを取れるような人物ではなさそうです。

黄道周

この隆武王朝での核心的人物と見なされるのが黃道周です。この人物は文官として崇禎帝の時代から活躍しており、弘光王朝でも大學士となっています。そのような経歴から、隆武王朝でも禮部尚書、兵部尚書という指導的立場についています。

ただし、この乱世の時代、文官として詩文の才に長けていたとしても、軍事的指導者としての能力はなかったのでしょう。清朝との戦いでは何ら功績を残すことができずに殺されてしまいます。しかし、その悲劇的な最期から、隆武王朝では名を残しています。

僕は、中国における科挙の制度というのは、平和な安定した時代には、有能な官僚を見出すシステムとして有効なのだが、乱世に軍事的才能や、臨機応変の対応を求められる場合には、あまり役に立たないのではないかと考えています。
何しろ、過去の文章を暗記して応用し、王朝の命令書を作成するのが主な仕事なわけです。軍事技術などは武官に任せて、文治政治に勤しむ。そのような能力が求められ採用された官僚に、軍事的能力を求める方が無理です。
黃道周は、文官のトップとして隆武王朝のために働くのですが、清朝との戦いの最前線に送られ、殺されてしまいます。誠にナンセンスな事態です。

翻って考えると、科挙のシステムで登用された文官でありながら、軍事的才能を発揮した洪承疇は、稀有な存在だったのでしょう。

鄭芝龍

鄭芝龍のことは、この「明清交代人物録」の最初のシリーズで紹介しています。

彼は、この隆武王朝では自ら軍事力を有し、軍事指導者である武官のトップという立場にいます。中国の王朝の常として、文官の下につく立場になりますが、軍事力を統べる力は全て鄭芝龍に帰している。何しろ、彼の私設軍隊なのです。

この人物は、中国の王朝史の中に位置付けるには、とても異端の存在です。既に紹介したように、東シナ海の海上交易史、或いは日本、中国、台湾、東南アジアを股にかけた国際交流史の中で、ようやくその存在意義を認められる。そのような人物です。
ですので、そもそも明王朝に対して忠義を尽くすとか、官僚としての出世を意図するとか、その様なモチベーションはほとんど持っていません。鄭芝龍の主な関心は、東シナ海の各地域間の交易を支配すること、そしてそれによって交易から利益を上げ、勢力を増やすことでしょう。明王朝の招撫を受け武官の長となっているのは、この立場にあることで、この海域の交易を牛耳ることが出来るからに過ぎません。

さらに言うと、鄭芝龍にとっては戦乱の世にあることは好ましいことではありません。この時代の商品の供給先は、中国の江南地方。これらの地で生産される織物や陶器、これらの品物を日本や東南アジア、果ては間接的にヨーロッパにまで売り捌くことで利益を得ているわけです。清王朝がこの江南地方を抑えてしまった時点で、これらの商品の供給が絶えてしまっています
鄭芝龍にとっては、この交易を再開することが何よりも重要で、それは隆武帝の存在よりも優先順位が高かったでしょう。

この様な考えの鄭芝龍は、黃道周とは水と油の関係だったでしょう。全く異なった志向を持った二人が隆武王朝の指導者だったのだと考えられます。

鄭成功

この様な隆武王朝の中にあって、特異な存在であったのが鄭成功でした。彼は、鄭芝龍の息子なので、本来鄭家軍のリーダーとして、父親の方針を引き継ぐものと期待されていたでしょう。しかし、彼は中国伝統の文人となる教育を受け、王朝への忠義であるとか、皇帝への服従と言った価値観を植え付けられています。
更に隆武帝に、皇族の姓"朱"を与えるほどに気に入られ、"國姓爺"と名乗るようになります。父親の準備したエリート文人官僚となる道を進んだ結果、父親とは異なった志向を持つようになっていました

この様なプレイヤーのいる隆武王朝でした。弘光王朝の様な、まるで政治主体として体を成さないという状態ではありませんが、やはり指導力を発揮するには程遠い状況です。何よりも、ここで具体的に軍事力を支配している鄭芝龍は、明王朝に対してはそれほど忠誠心を持たない、武装商人の親分と言っても良い人物でした。

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