【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第一章~ (3)
(3)
「ただいま」
今日は裁判が長引いたうえに事務所に戻って仕事をしていたから、帰宅した頃には23時を回っていた。何としても今日中に片付けなくてはいけない仕事があったので、夕食もまだだった。しかし、仕事に夢中になっていたせいか、腹はあまり空いていない。うるさいくらいに鳴いていた腹の虫も、食事は諦めたようだ。
三和土に上がってリビングに向かおうとして足を止める。
靴はちゃんと揃えたか? 揃えていないとまた由香里がうるさいからな。
玄関に戻ると、靴は三和土にあがった時のままの状態だった。革靴のかかとを揃えてつま先を扉の方に向ける。これでいい。
靴下を脱いで脱衣所の洗濯カゴに投げ込んだ。一日の汗を染み込ませた靴下を履いたままで家の中を歩き回ると、翌朝に愛実(めぐみ)が鼻を摘まんで文句を言ってくる。
『お父さん、足クサイんだから靴下はすぐ脱いでカゴに入れてよね! あ、でもあたしの下着に匂いがうつるのは嫌だから、違うカゴに分けて入れてよね』
まったく、これが年頃の娘の反抗期というものなのだろうか。洗濯してしまえば同じ洗剤、同じ柔軟剤の匂いがつくというのに。
腹は減っていないが、喉はカラカラに乾いていた。うちの法律事務所は暖房が効きすぎだ。寒がりな滝川美知子が暖房の温度をガンガンに上げるせいで、事務所内は夏日のように暑い。あれだけ脂肪を蓄えているくせに、なぜあそこまで寒がりなのか理解できない。そのくせ、夏になると今度は滝のような汗をかいて、冷房をガンガンに効かせるのだから訳がわからない。苗字が滝川だからと言っても笑えない。真剣にダイエットさせるか、事務所の電気料金を彼女に払わせなければいけないだろう。
上着を脱ぎ、供述書のコピーや、様々な書類の束が入って重くなった鞄をキッチンの椅子に置く。ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開けると五百ミリリットル入りのミネラルウォーターを取り出した。キャップを捻ろうとして止める。
明日は土曜日だが仕事は入れていない。ペットボトルを元の位置に戻して、代わりに鈍い光沢を放つ銀色のアルミ缶を取り出した。キンキンとまではいかないが、よく冷えている。
プルタブを指で引き上げると、爽快な音がリビングに響いた。はやる口を飲み口につけて、ゆっくり傾けると琥珀色の液体が喉の熱を一瞬で奪っていく。痛みにも似た炭酸の強い刺激に瞼を固く瞑った。思わずとある漫画のキャラクターの名セリフが口から飛び出そうになったが、やめておいた。
一本目を一気に飲み干して、ゴミ箱に放った。冷蔵庫から二本目を取り出し、コンビニで買っておいたおつまみ枝豆と柿の種を持ってリビングのソファーに座る。枝豆をレンジで温めようかと思ったが、面倒なのでやめた。
暖房をつけてテレビのリモコンのスイッチをオンにすると、ニュース番組が大きな液晶画面に映し出された。いつもこのチャンネルしか見ていない。
おつまみ枝豆の袋の中心を破いて、パーティー開けにして広げた。枝豆の袋ごと口に咥えて、中の豆を押し出す。いい塩加減だ。美味い。それを冷えたビールでぐいっと流し込む。これがたまらない。あとはほっかほかの焼き鳥でもあれば最高なんだが。
有名男性芸能人が覚せい剤所持で逮捕されたニュースが終わると「彼女」のニュースに変わった。男性キャスターが神妙な面持ちで、時折カメラに顔を向けながら原稿を読み上げる。
〈次のニュースです。5人を殺害した事件当時十八歳の女子高校生の裁判が本日行われ、検察は被告人に対して死刑を求刑しました〉
キャスターが読み終えると裁判所の映像に切り変わり、ナレーションが今日の裁判の様子を伝える。映像には、あの法廷画家が描いたと思われるイラストが使われていた。思ったより絵はうまくはなく、彼女はほとんど似ていないと言ってもいいほどに「不細工」に描かれていた。容疑者の写真は、写真写りが悪いものを選別して「印象操作」をすると聞いたことがあるが、イラストもそうなのかもしれない。
ビールをぐいっと呷って眉宇をひそめる。今日の二回目の公判で彼女は「盛大」にやらかした。
求刑に納得できないと裁判長にブチ切れたのだ(切れるなら裁判長にではなく、検察ではと思ったが)。あれだけ入念な「リハーサル」をしたのにもかかわらずだ。あんな大声を出して暴れたのにはさすがに驚いた。おかげで全てが水の泡になってしまった。
まったく、何を考えているのか。あれが若さなのか? そんなものではない。あんなものは、後先のことを考えずに感情に任せてやっているだけだ。自分がやったことの重大さにまるで気付いていない。困ったものだ。
アルコール臭くなったため息を吐きながら、初めて彼女と会った日の事を思い出した。
彼女は何事にも動じず、物怖じしないという印象だった。面会室での彼女は、背筋を伸ばして椅子に座り、アクリル板越しに真っ直ぐ私を見つめていた。初犯が警察に逮捕されると不安と罪の意識で情緒が不安定になってもおかしくないのだが、彼女に至ってはそんな素振りもなく、平然としていた。
『わたし、これからどうなるんでしょうか』
そう問いかけてきた彼女に犯した罪の重さ、それによって下されるであろう罰について酷ではあると思ったが、包み隠さず話した。しかし、希望は必ずしもゼロではないということも彼女に伝えた。そのために私は来たのだと。彼女を勇気づけようとして言ったつもりだったが、彼女は僅かに視線を落とし、『そうですか』と興味無さげに返事をしただけだった。
取り調べがある間は、彼女の身柄は警察署の留置場に勾留されている。他にも抱えている案件や裁判はあったが、なるべく時間を作って優先的に彼女に会いに行った。
事件が検察庁に送致され、10日間の勾留が決定するはずだ。勾留期間が終わっても、さらに10日間の勾留の延長があるだろう。その次は家庭裁判所に送致されて審判を受けねばならないし、その間少年鑑別所に収容されるのもほぼ間違いない。刑事事件だから逆送になるのも確実だ。彼女が越えなければならない壁は多い。
まずは、48時間の勾留の間に彼女の弁護人を選任しなければならない。弁護士をつけるにあたって、その弁護士費用は彼女の両親が負担して然るべきだが、彼女の母親が私選弁護人を雇うような金は無いと言ったのだ。払う金が無いというより、払うつもりはないと言ったほうが正しかった。自分の娘のことなのに、酷く冷徹な母親だと思ったが、他人が口を出せることではなかった。人を5人も殺した娘など娘ではないという口ぶりだった。対して父親の方は娘に同情的だったが、終始夫人の言いなりだった。阿久津家の主導権は夫人にあるようだった。
学生である彼女に私選弁護人を雇うほどの財力は、当然ない。そうなれば、国選弁護人が彼女に就くわけだが、その日の当番弁護士で初めて彼女と接見した私がそのまま彼女の国選弁護人になった。弁護士について「私選」と「国選」の説明をしても初めてのことで珍紛漢紛な様子の彼女を見かねて、私が彼女の弁護士になることを立候補したのだ。右も左もわからない彼女にとってもその方が良いだろうと思った。そして、裁判所から選任通知が事務所に届き、私は阿久津初華の弁護人に選任された。
それから何度も彼女と接見し、警察や検察での取り調べの様子や進捗状況を訊き、アドバイスをした。わからないことは、はっきりとわからないと言い、絶対に嘘はつかないこと。被疑者ノートに何という名前の取調官に、どのような取り調べをされたのか等を書くこと。事実と異なることを供述するように言われたり、強要されそうになった場合は、とにかく黙秘して自分の不利益になるような不用意な発言は絶対にしないこと。そのような事があった場合も被疑者ノートに書くこと。
被疑者ノートというのは、被疑者自身がノートにその日行われた取り調べの内容を記録するためのものだ。捜査が長い期間に及ぶと、どうしても事件の詳細の記憶が曖昧になってしまう。しかし、ノートに書いて記録することで、自分自身の記憶を整理し、また、書いた内容を確認することで、以前の取り調べの時と違う供述をしてしまう事態を防ぐこともできる。
さらには、取り調べ官から不当な取り調べを受けたり、脅迫や暴行をされた場合も被疑者ノートに記録しておくことで、それを確認した弁護人が裁判所に抗議することもできる。そして、弁護活動に被疑者ノートは非常に重要なものだ。彼女に被疑者ノートについて説明をし、取り調べの心得も熟読するように念を押してからノートを差し入れた。
しばらくたったある日、接見が終わってから被疑者ノートを宅下げするように彼女に伝えると、「格下げ?」と彼女は小首を傾げた。宅下げなんて普段は使わない言葉だ。知らないのも無理はない。逆に知っていたら、そっちの方が驚く。
格下げではないことを指摘してから、宅下げ手続きの仕方を彼女に説明すると「結構面倒くさいんですね」と彼女は言った。それには激しく同意した。
しかし、娑婆で友達同士が物品の受け渡しをするのとはわけが違う。ここに留置されている者たちは、大なり小なり罪を犯している者たちだ。たとえ、先の削られていない鉛筆一本を渡すにしても監視の目が厳しいのは致し方ないのだろう。
宅下げの担当官から、彼女の被疑者ノートを受け取って警察署を後にした。流石に受け取ったその場で見るわけにもいかないので、車に戻ってからノートのページをめくる。
彼女は取り調べの内容をちゃんとノートに書いていたようだ。18歳の女の子らしい小さな丸文字で日付、取り調べ官の名前、その日の取り調べの内容が書いてあった。
取り調べの手引きはしっかりと読んだだろうか。そんなことを考えながら、書かれている内容に目を通した。
2024年 7月18日
月曜日 午前9時○○分
担当官 木島祐一さん(34歳)
『今日の取り調べの担当官は、最初に逮捕されたときに取り調べをした人と同じ人だった。名前は木島祐一さん。34歳。1人暮らしで彼女なし。両親は実家暮らし。年齢は十分おじさんなんだけど年よりもずっと若く見えた。ちょっとカッコいいかもしれない。取り調べって刑事ドラマみたいにもっと怖いものなのかと思ったけど、そうでもなかった。木島さんは紳士って感じで優しかった。時々、取調室に入ってくる丸坊主の人は怖かったけど』
……まるで娘の日記を読んでいる気分になってきた。実際には、娘の日記など読んだことはないのだけれども。もし、愛実が日記を書いていたとして、それを私が盗み見したら一生恨まれることになるだろう。続きを読む。
『木島さんに楠田心尊(くすだみこと)の事について訊かれた。同級生で新体操部員の楠田心尊。わたしが一番殺したかったヤツ』
『一番殺したかったヤツ』か。これを書いたのが事件当時18歳の少女なのかと思うと、何ともやりきれない気持ちになる。しかし、彼女が5人の命を奪ったのは紛れもない事実だ。そして、楠田心尊という生徒を一番憎んでいた。
彼女は警察の取り調べにも素直に応じていたようだが、罪悪感については皆無だった。だから公判前の「リハーサル」でも手を焼いた。
『道重先生、わたし、やったことについては全部話しますよ。警察にも。検察にも。裁判でも。でも殺したやつらに謝罪なんて絶対したくない。反省なんてしない』
断固として謝らないと彼女は言った。しかし、それでは裁判で不利になるだけだと言っても、頑として聞き入れない。
『死刑になってもいいのか』と凄むと、そこでやっと彼女は煩悶する。反省はしないと言っておきながらも、やはり命は惜しいらしい。これではまるで脅迫だ。しかし、全ては自分のためなのだからと言ってきかせたつもりだった。
事件当時18歳の女子高生が5人を殺害したという事件は前代未聞ではあるが、動機や殺害手口など事件内容だけで判断するならば確実に極刑だ。だが、今回の殺人事件は被疑者が未成年の少女だというところがミソだった。それに加え、彼女の場合は事件の状況が少々複雑であるということも注目すべき点だった。
彼女は2024年の7月6日の日中に新体操部の後輩である、寺塚莉緒(てらづかりお)と望月陽葵(もちづきひまり)をシャベルで殴打し、生き埋めにして殺害した。
そして、翌日の未明に楠田心尊とその両親を放火で殺害した。注目すべき点というのは彼女の誕生日が7月7日ということだった。つまり、後輩の二人を殺害したときは17歳だったが、楠田一家を殺害したときは18歳ということになる。
少年法では18歳未満の少年が死刑に値する事件を起こした場合は、死刑ではなく無期懲役の判決を下すことが定められているが、18歳に達している場合は成人と同じ扱いで死刑判決を言い渡すことができる。
阿久津初華の出生日時は7月7日午前2時15分だった。楠田一家に火を放ったのは7月7日の未明だが、正確な時間まではわからずじまいだった。となると楠田一家を殺害したときは17歳なのか18歳なのかわからないということになる。
しかし、年齢計算ニ関スル法律では出生時間ではなく、出生日の前日が満了した時点で年齢を加算することが定められている。つまり、誕生日当日の0時になった瞬間に歳をひとつ重ねるということだ。ということは、楠田一家を殺害したときの阿久津初華の年齢は18歳ということになる。もちろん、放火殺人も一級の殺人だ。死刑の可能性だって十分にある。だが、事件当時18歳の少年に死刑判決が下された判例はあっても、18歳の少女に死刑判決が下された判例はない。そもそも、そんな事件が現在に至るまで起きていないのだから当たり前だ。ゆえにそれも裁判での「泣き所」になるのではないかと踏んでいた。
体裁は悪いが「泣き落とし」で裁判官の同情を買うことも可能かもしれないとも考えていた。裁判官とて人の子だ。もし、自分に年頃の子供がいたならば我が子と重ね、お涙頂戴の寸劇に心が揺れ動く可能性も捨てきれたものではなかった。
とにかく、演技でも何でもいいから裁判で反省と謝罪を述べるようにと私は何度も口を酸っぱくして伝えた。そして本番に向けて何度も「リハーサル」をした。結果は御覧の通りだ。ただでさえ上辺だけの反省だったものが、最後に彼女が「やらかした」せいで上辺どころか、まったく反省していないことがその場にいる全員にバレてしまった。事件内容だけでも十二分に万死に値する上に、最後のアレでは判決でどうなるかいわずもがなだ。
ただし、それは被告人が「男性だった場合」の話だ。今回の少年事件の被告人は事件当時18歳の少女だ。未成年の少女が死刑に相当する事件を起こしたことも、死刑判決を受けたことも過去にはない。ということは、この裁判が今後同様の事件が起きた場合のモデルケースとなるわけだ。そう考えると、いきなり死刑判決が下されるというのは考えにくい気がする。最悪でも無期懲役の可能性が高いのではないだろうか。
とにかく、今回の刑事裁判はどう転ぶか未知数な部分が多い。それに、私の娘と同年代である彼女をこのまま死なせてしまうのはあまりにも忍びない。彼女の両親だって娘に「死刑判決」が下されたら酷く悲しむだろう。本人だって若い身空で人生を終えたくはない筈だ。できる限りの手を尽くさなければならない。
空になった空き缶を握り潰した。ふと、テレビを見るとニュース番組は終わっていて、深夜のバラエティ番組に変わっていた。コンビのお笑い芸人が、ゲストの女優と他愛もないトークを繰り広げている。リビングの時計を見ると日付が変わっていた。
少し、うとうととしてきた。疲れのせいもあるかもしれない。たかが缶ビール2本で酔っ払ってしまうとは。だが、まだ少し飲み足りない気がした。
明日、いや、今日は休みだ。もう1本くらいは。そう思ってソファから体を起こすとでっぷりとした腹が目に付いた。
……やめておくか。また愛実のやつにお父さんのお腹だらしないと言われてしまう。滝川美知子のことを言えない。俺も、ダイエットしないとな。腹を摩って叩くと乾いた音がリビングに響いた。
ビールの空き缶とゴミを持って、キッチンに向かった。そういえばさっき、1本目の空き缶をゴミ箱に投げ捨てたが、缶の中を洗うのを忘れていた。そのままにしておいたらゴミ捨ての時に『また洗っていない!』と由香里にドヤされる。あいつは、酒の臭いに敏感だからな。ゴミ箱から缶を拾い上げてシンクの蛇口を捻り、中を洗浄した。
「阿久津初華か」
現在の彼女は19歳。娘の愛実は、もうじき18歳になる。そろそろ誕生日プレゼントを準備しなければいけない。毎年プレゼント選びを失敗しているから慎重に選ばなければ。今度は気に入ってくれるといいんだが。とにかく、今日はシャワーを浴びてもう寝よう。
リビングの明かりを消してバスルームに向かおうとしたが足を止めた。その前に、二人の顔を見ておこうか。
~第一章~ (3)の登場人物
道重大輔(みちしげだいすけ)
阿久津初華の弁護人。妻の由香里と娘の愛実がいる。
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