「いま」を生きる、ということに向き合う。
昨日は、親鸞聖人降誕会法要をお勤めしました。
承安3(1173)年にお生まれになり、9歳で得度、当時としては稀に見る長寿の、90歳のご生涯でした。
29歳で比叡山を下り、法然上人と出会われ、その後流罪となり、非僧非俗の生き方をされ、浄土真宗をお開きになられました。人生50年時代の29歳の決断は、残りの人生をどう生きるか?を真剣にお考えになられたことなのだと思います。人生100年時代に置き換えると、私はちょうどそのような時期。到底及びませんが、これからの生き方を真剣に考えるきっかけとなったコロナのこと、そしてお寺のことについて、法要が終わって久しぶりに自分のデスクを片付けながら、考えてみました。
貴族や国家鎮護のための仏教から、民衆のための仏教に変わった平安末期・鎌倉時代。疫病や飢饉で社会が変わり、そして政治が変わり、日本の仏教も大きく変わりました。
そして明治になって、急激にこの国の制度や文化が大きく変わり、廃仏毀釈もあったりしながら、仏教(組織教学)の近代化が進みました。降誕会法要も明治2年からの、新しい法要です。西洋の文化を取り入れたのでしょう。神前(仏前)結婚式も、キリスト教の結婚式が入ってきてからのことです。昔からの伝統やしきたりのように思う、二礼二拍手は、明治40年〜です。
そこから、アップデートできているのか?いつもここに引っかかり、思い続けた四半世紀でした。新型コロナウイルスは、そういったもやもや感を、一気に崩しました。「いま始めないと、どうする?」と、前向きな気持ちで日々過ごせています。「セレンディピティ」という言葉があります。「偶然性」とか「予想外の出会い」と約されてますが、それはアテズッポで出会えるものではないようです。ずっと何かを考え、行動したプロセスの中での偶然性であり、予想外のことではないでしょうか。最近そのような出会いや発見がいくつかありました。
新型コロナウイルスを歴史的な流れで、今までよく似たこと:新型インフルエンザ、SARS、スペイン風邪、ペスト・・・が何度も起こっていることから考えますと、政治も、経済も、社会も、これから大きくかわり始めるきっかけになるということは、誰もが想像できることです。
過去のこうしたターニングポイントを生きて来られた方にお会いすることはできませんので、その時代に書かれたものを読み、今目の前で起こっていることを冷静に見聞きすることで、何かがわかるかもしれません。共通項を見出そうとはしていませんが、「今」をしっかりと「問う」生きかたをされた方の言葉は響きます。
わずか数ヶ月の経済活動の縮小で、自然界はどれだけ美しさを戻したか。
ガンジス川が清流になったり、エベレストがきれいに見えたり・・・。私も例年黄砂とPM2.5でボロボロでしたが、今年は体調崩してませんね。
一方、わずか数ヶ月のことなのに、私たちの生活基盤はいかに脆弱だったのか、ということ。ごく一部の者の富のために、どれだけ多くの人と社会と環境が犠牲になっているのか。変わらないニュースソースを薄く引き伸ばし、延々と煽るテレビ番組をみながら、マスクが来たとか来ないだとか、感染者数と死亡者数の増減で一喜一憂しています。感染者が減ったとしても、感染され、もしくはホントは感染しているのに治療もできない多くの方々がいらっしゃることを想像できず、死者が減ったとしても、お一人お一人の命が亡くなり、有縁の方が悲しんでいらっしゃることを理解できないのは、なぜなのでしょう?目の前にコロナウイルスという存在があっても、苦しんでいらっしゃる方の映像をみても、自分の生活が制限されていても、どこか他人事なのは、なぜなのでしょう?
「新しい生活様式」だけが話題となっていますが、いま社会を支配する「これまで」の価値観を超えて、「いま」をどう意味を持って生きていくかという、「整理の時代」なのではないでしょうか。
もうすぐ今年も半年となります。年初の書き初めは、私は「自然」、カミさんは「今日」でした。「今を大切に思い、あるがままに受け容れて生きる」という私たちの思いで、「これから」をどう生きていくのかが大切ですね。
親鸞聖人は、
「真の言は偽に対し、仮に対するなり。」(『教行信証』)とおっしゃっています。
※現代語訳
「真(まこと)」という言葉は、「偽(いつわり)」に向き合い、「仮(かりそめ)」に向き合うということです」
偽:いつわりではなく、仮:自分の都合でもなく、真:人間の愚かな本性と向き合うこと・・・「常識をわきまえた上で、常識に執らわれない、常識を超えていく」ということを説かれています。
お寺の経営も、これまでの「常識」にとらわれない、ご門徒や地域社会に本当に必要とされる「場所」にしていこう!と、励まされる言葉です。
ムスメが教えてくれた「楽しいお寺」ということを目指します。