何かを信じるよりも、信じているものはどこか?——超越論的経験論/超越論的敬虔論——
私は「信じる」という語が好きです。一般的に、人が「私は知っている」と言うとき、人は知らない、信じている、のです。芸術というのは、あるがままの人間が個人として自己を見せるときに用いるような唯一の活動形式だと私は信じています。この形式によって初めて人間は動物的段階を越えることができるのです。芸術とは、時間も空間も支配しない領域への出口だからです。生きることは、信じることです。少なくとも、それが私の信じることです。——マルセル・デュシャン
誓い=約束は、いったい何をなすのか、つまり、もろもろの「真摯な」言明も、また同時にさまざまな虚偽や偽りの誓いも、だからすべての他者への呼びかけを、まるでそれらの影のように、条件づけ、それらに先行する、この公理的な(準-超越論的な)遂行性の約束は、したがって何をなすのか。それはこう言うことに帰着する、「奇蹟を信じるのと同じように、私の言うことを信じてほしい」と。——ジャック・デリダ、『信と知』
キルケゴールは『おそれとおののき』において、旧約聖書における「イサクの燔祭」を取り上げて、それが「信じること」とどのように関わるのかを考察している。以下は、「イサクの燔祭」についてである。
神はアブラハムを試錬し、彼にアブラハムよと呼びかけられた。アブラハムは、「はい、ここに」と答えた。神は言われた、「君の子、君の愛する独子、イサクを連れてモリヤの地に赴き、そこでイサクをわたしが君に示す一つの山の上で燔祭として捧げなさい」。アブラハムは翌朝早く起きて燔祭の薪を割り、驢馬に鞍をおき、二人の若者とその子イサクを連れ、立って神が彼に言われたその場所へと赴いた。三日目にアブラハムは眼をあげて遠くからその場所を望み見た。アブラハムがその若者たちに言うには、「お前たちは驢馬と一緒にここに居れ。わしと子供はあそこまで行って礼拝をしまたお前たちの所に帰って来る」。アブラハムは燔祭の薪をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刀をとり二人一緒に進んで行った。イサクがその父アブラハムに向かって、「お父さん」と言う。アブラハムは、「はい、わが子よ」と答える。イサクはさらに言う、「火と薪の用意はあるのに、燔祭の小羊は何処にあるのです」。アブラハムは答えて言った、「神御自身が燔祭の小羊を備え給うだろう、わが子よ」。かくて二人はともに進んで行った。
ついに彼らは神がアブラハムに言われたその場所に着いた。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサクをしばって祭壇の薪の上においた。かくてアブラハムはその手を伸ばし、刀を執って、まさにその子をほふろうとした。その時ヤハウェの使いが天より彼に呼びかけて、「アブラハムよ、アブラハムよ」と言った。アブラハムは「はい、ここに」と言う。ヤハウェの使いが言われた、 「君の手を子供に加えるな。彼に何をしてはいけない。というのは今こそわたしは君が神を畏れる者であることを知ったのだ。君は君の子、 君の独子をも惜しまずにわたしに献げようとしたからだ」。アブラハムが眼をあげて見ると、見よ、一匹の牡羊がいてやぶにその角がひっかかっていた。アブラハムは行ってその牡羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭として捧げた[i]。
ここでは明らかに神は殺人を命じている。神が燔祭を命じた動機について、伝統的に三つの解釈が支持されている。⑴アブラハムの信仰心を試すため。⑵燔祭の場所として指示されたモリヤの山が神聖な地であることを示すため。⑶イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため。しかしながら、この「燔祭」はこれらの解釈のような甘いものなのだろうか。あるいは、キルケゴールは実存を三つに類型化した。たとえば、感性的実存:目の前の快楽を追求し、衝動的に行動するという生き方。倫理的実存:自分の人生がいつかは終わりを迎えるという現実と向き合い、永遠の真理を追究する生き方。宗教的実存:人生における絶望を自覚し、ただひとり生きる生き方。「燔祭」はこれらに還元されることができるだろうか。
倫理的なものは、倫理的なものである以上、普遍的なものであり、普遍的なものである以上、すべての人に妥当するものである。これを他の面から言いかえる、いついかなる瞬間にも妥当するもの、ということである。倫理的なものは、自分自身のうちに内在的にとどまっており、自己の目的(テロス)というものをなんら自己の外に有せず、それ自身が、自己が自己の外に有するいっさいのものにとってテロスである。そして倫理的なものがテロスを自己のうちにかくまっている以上、倫理的なものはその先へ進むことがない[ii]。
カントはその倫理学において、「定言命法」という答えのない義務を提起し、その行為が「いつでも、どこでも、誰にでも」当てはまる(普遍的な)善い行いなのかを確かめて、行為を実践することを説いた。ベンサムはその功利主義において、一人をただ一人と数えて、(その状況で普遍的な)最大多数の幸福をもたらす選択肢を純粋に計算することを説いた。また、ミルは「他人に危害を加えなければ何をしてもよい」という最大限の自由を保障することで、各人が諸能力を徐々に伸ばしていき、未来において最大多数の幸福が実現されると考えた。近代の倫理学は、「その先へ進むことがない」。それに対して、徳倫理学はあらゆるものには「目的」があり、それと「よさ」が合致することが正義だとする。バイオリンは上手く演奏される「ために」あり、金持ちが自己を誇示するために居間に飾るのでも、アイドル的人気を持つ容姿が優れたものが下手に弾くためにあるのでもない。しかしながら、この「目的」と「よさ」の選別は恣意的なものであり、徳倫理学はその先へ進むが普遍的ではなく、ただ恣意的である(アリストテレスが「人間はポリス的動物」であると恣意的に決めたように…、「神か獣か」…)。
「倫理的なものの目的論的停止というものは存在するのか?」とキルケゴールは問うとき、そこでは近代の倫理学ではあり得ない倫理的なもののその先があり得ることが示唆されている。また、それは誰かが恣意的に決めるような徳倫理学の「目的」でもない。神はただ殺人を命じている、それも、不妊の妻との間に年老いてからもうけた一人息子をである。それならば、感性的なものとして、この殺人を祭り上げることはできるだろうか。たとえば、アブラハムに内面的葛藤があるかもしれない。ひたすら思い悩んだあげく、それでも殺すことを選んだとする。そのとき、アブラハムは「悲劇的英雄」となるだろう。あるいは、アブラハムが同じように思い悩んだあげくに、息子ではなくて自分を殺して自らを燔祭として捧げることもあるかもしれない。これは、「美的」な話しではあるのだが、神の命令はそのような甘いものではなかった。したがって、感性的なものは関係がない。それならば、「宗教的なもの」はどうだろうか。テロによる殺人は一般的には民族を救うため、国家の理念を主張するためとされるが、神はそのようなことを命じていない。ここでは、政治の話しは極力避けるが、そもそも中東が混乱した最初の要因はイギリスの三枚舌外交であり、アメリカを筆頭にした先進国の好き勝手な振る舞いこそが原因である。テロ行為は宗教的なものではなく、政治的行為でしかない。
燔祭をキルケゴールにおける実存の三つの類型化から考察すると、⑴感性的なもの:感動させるような「悲劇的英雄」ではない。涙が出る感動的な物語である自己犠牲という「美的」なものでもない。⑵倫理的なもの: 「倫理的なものは、倫理的なものである以上、普遍的なものであり普遍的なものである以上、すべての人に妥当するものである。」彼の殺人という行為には、倫理的に正当化するものはない。⑶宗教的なもの:自爆テロなどの殺人は、民族自決や国家の理念の「ために」行われる。アブラハムは「この世でいきるために」殺そうとしたのであって、あの世や、天国や、救済を期待した「ために」ではない。アブラハムの行為は何ものにも還元することができないのだ。この無目的な「信じること」は、人々に「おそれとおののき」を喚起させる。
アブラハムは倫理的なものに背を向け、「それを停止させ」、倫理的なものの外で一段と高い目的を抱く。こうして彼が「普遍的なものを手放すこと」は道徳的な面での諸要求と葛藤させ、数々の苦悩にさらす。彼は孤立し、独りとなる。自分の行為の正当性を理性的な思考や行動に訴えて他人に納得させることができず、所詮は異常なもの、不可解なものと受けとられるに違いない。このとき彼はひとりの特殊な個人として、「絶対的なものに対して絶対的な関係」に自己を置いている。…彼は、狂っているか、空しいかである。さらに加えて、人として理解できる仕方で自分の正しさを弁護しようとしても、彼の困難な状況から逃れようとする単なる弁解としか映らない。…アブラハムは、道徳的にもまた自然的にも、これらの誘惑と戦いその試練に耐えて「信じること」を貫く。言い換えるとアブラハムは、その逆説的な行為が引き起こすおののくばかりの結果を、しかし最後まで耐え通した[iii]。
「信じること」はあるゆる目的と無関係になり、アブラハムによってただ自律して存在させられることになる。何かを信じるのでも、「~のために」信じるのでもなく、ただ、信じるという働きだけが存在しているのだ。ところで、神は信じるという営みをするのであろうか。神は全知全能であり、全てが当たり前なのだから、何かを願い信じることなどしないだろう。さらに、アブラハムのようにただ内容もなく信じること、不気味で、残酷で、無慈悲な「信じること」など神にとっては無関係であろう。こうして、「信じること」はこの世のあらゆるものから独立し、無神論的にただ自律した働きとなったのである。
信じること、願うことは宗教の専売特許であった。ただし、その場合は、多くが〈私〉が信じたいものを信じ、〈私〉が起こって欲しいことを願うのである。ムハンマドの換山は、夏目漱石の『行人』において宗教の本質を表すものとされていた。ムハンマドは「奇跡を見せる」と約束して人々を集めた。そして、三度も「おーい山よこっちへ来い」と呼びかけたが山は動かず、最終的に、ムハンマドは自分から山へと近づくことで相対的に山を動かしてしまう…。こうして、ムハンマドは約束どおりに奇跡を見せたのだ。ここでのポイントは、ムハンマドは「山が動く」ことが奇跡とは言ってないことである。人々は信じたいものを信じ、起こって欲しいことを願ったが、そんなことが起こるわけがない。〈私〉が信じたいものを信じ、〈私〉が起こって欲しいことを願うことは、それぞれの〈私〉にとって相対的であり、自分こそ何かを信じているクセに、他人が信じているものを非難し、笑おうとする。懐疑論者は「あらゆることが疑える」としながらも、「あらゆることが疑える」ということは疑わない。懐疑論者は「あらゆることが疑える」ということを盲目的に信じてしまっているのだ。自殺論法をしてしまうまでに。ムハンマドが山へと近づいたことは、そうした都合の良い信じることへの批判行為となる。奇跡とは人間に信じる力が備わっていることであり、問題なのはその力の使い方である。何かを信じることは相対的なものであるが、人間に信じる力があることは絶対的である。
ムハンマドによる「宗教」と「信じること」への脱構築的行為。……信じるか、信じないかではなく、信じる力はつねにすでに働いており、あらゆる行為と活動を可能にさせている。懐疑論者でさえも信じていたように、人間から信じることを取り除くことは不可能である。信じることは経験の背後で働いており、経験そのものを可能にする超越論的なものである。ムハンマドは換山の対抗的行為によって、その超越論的な「信じること」を経験させることに成功した(超越論的なもの自体を経験させる、超越論的経験論)。デュシャンが言うように[iv]、「一般的に、人が『私は知っている』と言うとき、人は知らない、信じている」。人が「私は知っている」と発話するならば、知っていることの事実確認かもしれないし、自慢や証言の行為遂行かもしれない。しかしながら、その背後にあるのは、「私は知っている」という発話が言語行為になって欲しいという、願いであり、信じることである。「私は知っている」という発話がスルーされるならば、その発話は何の意味もないからである。したがって、事実確認や行為遂行の背後で働いているのは、これが言語行為になって欲しいと信じる「超越論的な行為遂行」なのだ。誰もが発話する時にはこの信じることの「超越論的な行為遂行」をしており、誰もが「敬虔」なのである。「奇蹟を信じるのと同じように、私の言うことを信じてほしい[v]」、これがAIやロボットにも起こるのだろうか…。
ジョン・サールが思考実験「中国語の部屋」でチューリングテストに反論した(大森正蔵の『ロボットの申し分』の)ように、質問に対する答えが返ってきても、心のある主体として理解して答えているのかは外からは分からない。AIやロボットが何らかの発話をして、人間との間でそれが言語行為として成立してしまった時の「超越論的な行為遂行」も「奇蹟を信じるのと同じように、私の言うこと(心の存在)を信じてほしい」となるのだろうか。唯物論(正確に言うと無内容なただもの論)でしかAIやロボットは実装化できないのであり、記号論理による推論や機械的演算の世界に「信」などというものはない。したがって、経験的な信じる主体は存在しないが、経験の背後における働き、言語行為を支えているものとして「信」はあることになる。何も信じずに信じること。あり得なかった「出来事」としての信じること。無神論的な信仰を新たな経験のために活かすことが求められる。「生きることは、信じることです。少なくとも、それが私の信じることです。」こうして「超越論的経験論」はまた「超越論的敬虔論[transcendental devoutlism]」となる。「超越論的な行為遂行」は〈私〉の発話行為を経験として可能にさせると共に、言語行為となるために〈私〉を消尽させて身を捧げるような[de-vout:~から(de-)捧げた(votus)]賭けを要求する。あらゆる言語行為には、願い、信じ委ねようとする賭けが本質的にあるのだ。……「これがどうか言語行為になりますように」、「この行為が意味のあるものになって下さい」……それは、つねにすでに〈私〉を差延している出来事という他者への敬虔さである。
信と知……〈知っていると信じていること〉と〈信じるすべを知っていること〉、この両者のあいだの選択は戯れに類したことではない——ジャック・デリダ、『信と知』
参考文献
ジャック・デリダ, 『信と知』, 湯浅博雄・大西雅一郎訳, 未来社, 2016年.
キルケゴール, 「おそれとおののき」, 『世界の大思想31』, 桝田啓三郎訳, 河出書房新社, 1974.
『旧約聖書 創世期』, 関根正雄訳, 岩波文庫, 2006.
パトリック・ガーディナー, 『キェルケゴール』, 橋本淳・平林孝裕訳, 教文館, 1996.
[i] 『創世記』、pp.68-70
[ii] 「おそれとおののき」、 p.49
[iii] ガーディナー、pp.77-78、強調引用者
[iv] 「芸術とは、時間も空間も支配しない領域への出口だからです。」この発言の意味については、拙論「純粋な鑑賞のための任意空間:ヴァーチャル空間から引き出されたイメージと身体性」を参照せよ。
[v] デリダ、『信と知』、2016年、pp.158-159
©Hiroya Shimoyama. All rights reserved. 2025年1月16日