見出し画像

地獄の発見

ある詩人いわく「地獄」を発見したのは、中世の文豪、ダンテだそうだ。彼の傑作『神曲』は、初恋の女性に導かれて、天国に向かう過程を描いているが、天国がいかにすらばらしいものかを描くために、禍々しい地獄を対比させ、しかもその地獄は単なる空想ではなく、この世の現実であったというのだ。その時から、文学は、この世の「地獄」を描くという、役割を見つけたというのだ。
 
詩人続けていわく、それに比べれば、ボードレールの描いた「地獄」は都市という人工世界での、幻惑的、衒学的なお遊びであり、20世紀のエリオットの『荒地』は、現代(20世紀)の地獄に相当する、ということだ。では、なぜ、人類はここまでして地獄を描かなくてはならないのか?普通に考えれば、天獄との対比が必要だからであろうが、私はそれでは腑に落ちなかった。

シャルル・ボードレール

そもそも「地獄」という言葉は、いつ生まれたのだろう。歴史を紐解くと、原点は古代メソポタミアやエジプトにもあるが、今のような「罪を裁かれ苛烈な責苦がもたらされる」具体的なイメージはなかった。仏教にも「地獄」の概念はあるが、その対比は極楽、天界、涅槃と多様であり、永遠という概念もない。復活も伴っていない。人類は「地獄の」を発見したことで、初めて快楽の永遠というイメージを持てたのかもしれない。

確かにこの世界には、つかのま、目を疑うような美しさや、極上の気分を味わうことはある。しかし、それは長くは続かない。その刹那に、永遠を求めた。勿論、叶わぬ夢だ。阿片やドラック、あるいは娼館がその夢を叶えてくれるかのように思えた。しかし、待ち受けていたのはご存知の通り、衰弱、性病、退廃、そして亡国である。残酷な国は、それを支配のために、兵器として使ったことは、歴史の通りである。
 
エリオットの『荒地』は、そうした結末を充分に理解した上で、彼の地の首都で書かれた。ヨーロッパ文学の古典の引用を駆使し、現代の都市にそれを当てはめて。それは20世紀最高の文学とされ、私たちの書く現代詩は、その延長にある、と言われている。つまり、現代詩人は現代の地獄を描き切り、新しい天国のイメージを見つけなくてはならないのである。

もしそれを諦めるとしたら、文学は、人類に未来を示すという役割を放棄することになるだろう。映画や、バーチャルリアリティ、そして漫画やアニメは、確かに「地獄を描く」その役割を果たしつつある。マスは、それを好む。文学は、最も重要な役割をテクノロジーに譲ら渡したのかもしれない。しかし、私は、信じている。言葉を。このシンプルで、ほとんど資源を使うことなく、指一本で作り出せる、観念、概念、イメージの宇宙である「詩」を。

これは、信念というより、決意という名前の宗教への帰依なのかもしれない。全ての宗教に、神の存在が必要なのだとしたら「詩の宗教」にも神が必要だろう。それを、描くことと、詩を書くことが、一致する点を求めて、これからも詩を描き続けよう。そのためには、人類が地獄で生きている、ということを証明しなくてはならない、これは、なかなか大変なことである。(終わり)

TSエリオット


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集