H氏賞『Uncovered Therapy』を読んで
『Uncovered Therapy』
著者 尾久守侑
出版社 思潮社
発売日 2023/8/10
https://amzn.asia/d/87258m3
尾久守侑は1989年東京都生まれ、現役の精神科医である。セラピーの現場を詩の素材としている、もちろん、個別の治療に関わることは書いていないが、読み込んでいけば、治療のシーンも見えてくる。彼の患者が読むこともあるだろう。彼の詩人としての一般的な評価は「深刻な場を渇いた 笑いにするユーモアがある。詩のテーマは実在とその不確実性、批評的な視線と語りの勢 いが魅力」といったものである。しかし、吃音的な言葉遣いや、意味不明のルビ、認識の混乱やずれが、統合失調症など病気の症例の引用だとすれば、医者としての倫理スレスレにいることになる。
尾久は言う
「治療関係という異常な人間関係を生き延びるのに、個をその場に差し出すこ とを避けられなかった」
「10年医師をやって、私の 個は患者一人一人との関係の影響を受けて不可逆に変質している」
正直な人である。かつ甘えた人である。治療行為を通した人間関係によって自分自身が変化しているという、当たり前のことにあえて言及し、「隠すことが容易な形式である」から詩人になったと、言い切っている。詩人もナメられたものである。詩を書きながら、罪悪感を感じているとも話している。アタリマエだ、と言いたい。詩人はそもそも「罪人」であり「呪われ人」であるという基本を忘れたのか。詩作は自分が犯してきた罪を真正面から見つめることでもあって、人が人の病名を決めるという権力を持っている者が、罪人でないはずがない。
いや、まてよ、と私は思った。もしかしたら尾久はそうした発言を通して、日本のボンクラ詩人どもが、それに気づくかどうかを試しているのかもしれない。だとしたら相当意地悪な人だ。
もちろん、尾久守侑は、世間一般では、高学歴のエリート精神科医であり、多才で器用な人である。しかし、彼の本を色々読んでみると、自己を保つためにギリギリのところで踏ん張っている印象がある。私が彼の著作から聞こえるのは「助けて」という、小さな叫びである。それは、まるで異星人に拉致され、別次元に抑留されている恋人の声のようである。もしかしたら、それは私にしか聞こえないのではないか、と彼を助けたくなる。これすら、彼の戦略だとしたら、完敗である。しかし、尾久にしてみれば、生き死にをかけたギリギリの線「世界線」(「信じる世界線」『悪意Q47』)疑いが疑いを生み、謎が深まるのが尾久守侑の詩の魅力である。もしかしたら、尾久守侑が偽物かも知れない、とすら思っていたが、私はH氏賞の表彰式で彼に会っているので、本物である。
彼は、知的な紳士なので、自分のナルシシズムや虚栄心を、おおかた理解していて、それを恥じているところがある。一方で、認知欲求が強く、褒められれば嬉しい、むしろ、褒められるためにやっている。演技している、と認めている。彼の本を読んでいるうちに、何が彼の本音かわからなくなって、このナルシシズムでさえ、偽物かもしれないと、疑うようになってしまった。堂々巡りである。精神の迷宮。そういう意味では、新しいタイプのカリスマである。嘘を信じてもらって大衆の気持ちを癒すのがカリスマの務めだ。もちろんそれが暴かれた時に、叩きのめされることをわかっていてもそれをする。
昨今の日本の30代の詩人の半分は、昭和時代を知らず、成人する前にスマホを手にしているデジタルネイティブであり、有り余る2次元コンテンツの情報の嵐の中で育ってきた。一説によると平安時代の人が一生かかって得る情報を1日で得るそうだ。どんな計算か怪しいが、もしそれが本当だとすれば、情報量の観点では、1万回以上人生を楽しんでいることになる。情報管理の達人である。一方、文字と映像の記憶が、実体験よりも圧倒的に多い。また反知性主義の傾向もあるので、権威主義的な言葉を嫌う。かといって子供っぽいと馬鹿にされるのも嫌だ、となれば、こういう修辞法しかないんじゃネ、というところに落ち着く。知っていても使われない言葉や情報が圧倒的に多い。それに加えて、日々新しい言葉が若者によって作られ、それにキャッチアップしながら、言葉そのものの変化に敏感に、しかも誰からも嫌われず、馬鹿にされない態度で、世を渡っていく時に、必然的に生まれてきたガラパゴス言語が若者口語なのだ。身から出た錆ではあるのだが、大変なストレスだと思うし、上の世代の責任がないこともない。
しかも、コロナ禍の3年間で、それが密室化し、よりセンシティブでフラジャイルなものになり、尾久守侑クラスになると、それはもう名人芸なのである。今の日本の若者言葉は、どんどん変化しているし、賞味期限が短いこともわかっているから、その配分に気を使う。まるで精神科医として臨床でメスのように言葉を使いこなす日々、また、専門家として患者や同僚から尊敬されなければならないという、高いプロ意識柄なせる技であり
、詩では使えない言葉を、別な本で使える強みもある。良し悪しはわからないが、精神の均衡を保つには役にたつだろう。
こうして、若い精神科医の詩人が活躍し、日本の詩の方向性が複雑に変化していくことを個人的には歓迎する。反対に、日本語の、ガラパゴス化、秘教化が進み、国際的にはどんどんマイナーな分野になっていく可能性も否めないが、賢い詩人たちはそれを漫画やアニメと共存することで、乗り越える術をすでに持っていているような気がする。日々、これまでの詩の権威が死に絶えるのを喜び、したたかに次の時代の戦略を練っているのではないか、と余計なことを考えたりもする。
世界中に広まる大人の子供化、いわば日本化がもたらすことの良し悪しを問うのは、ここではやめておいて、私のような、前時代の教養主義という、覇権国の権威的なイメージの建築物の中で、欧米の洗練された知性とやらに洗脳され、それに憧れて育った者の価値観を根底から破壊する力があることは確かであり、私はこっち側で、彼らとの共存を目指すか、潔く討ち死にするか、戦うか、の3択を迫られている。だから、尾久守侑の書評を、書くということは、私にとってもなかなか挑戦的なことなのである。前置きが長くなった。
⚫️
「私はどうも自分が“本物”ではないという気が昔からしていて、なにかが上手くいって“本物”扱いされるたびに余計に偽者であるという感覚が強くなるので、なんだか申し訳ないような気がしたり、最後には真実の目をもった人間が登場して私の偽者性を暴いて破滅してしまうのではないかという気がずっとしている」
尾久守侑のnoteからの引用である。noteは、クリエイターが文章や画像、音声、動画を投稿して、ユーザーがそのコンテンツを楽しんで応援できるメディアプラットフォームで、私も利用している。
彼は2022年に『偽物論』という本を出していて、これは『Uncovered Therapy』と2021年の『悪意Q47』の間に出た臨床医のための専門書なので、この3冊の流れを掴むことが必要と考えた。この3年は、コロナ禍とテクノロジーによって、人間関係が、身体性をどんどん失っていく時間である。当然、多くの人々は鬱に悩まされる。そんな世相を若い精神科医が、どうとらえたのか、という風に考えると面白くなる。あらゆることを、因果関係で捉えるのが科学者であり、病名をつけるのが医者の仕事なのだから、世界の病に名前をつけ、その原因を暴いてくれるはずだ。この3冊にはその答えがある。病名は「偽物」原因は「悪意」そして、その治療法が「アンカバードセラピー」である。アンカバードセラピーは専門用語だと思う。適切な距離を保った治療という意味だろうか。いずれにせよ人と距離をうまくとれないことに対するアイロニーである。
彼は、詩人の森本孝徳と親しい。森本から『悪意Q47』について「のべつ幕なし「モックであること」を気に留めつつある尾久と対面する」と評されたらしい。解釈がむずかしいが、モックというのは「モックアップ」の略で、完成形に近い見た目の試作品や模型のことらしい。つまり、『悪意Q47』はレプリカであって、本物ではないと言われているようなものである。お前は偽の精神科医であり、偽の詩人だと言われているようなもので、尾久は、自分が精神科医であることをあくまで、主張したうえで、詩人もやるよ、と宣言した。つまり、そもそも、詩人は偽物である、と言い訳したのである。
尾久は、こう述べる。「他人を偽者だと感じることは、精神科の業界ではありふれている。ある親しい人が別人に入れ替わっているという妄想は、カプグラ妄想と呼ばれ、統合失調症によく見かける」
カプグラと反対に、フレゴリ錯覚は見知らぬ人を既知の知り合いだと思う妄想らしい。我々にとって、いくら神秘的な体験であっても、精神科医にかかれば、病気の症例として解釈されてしまうのだ。
同じように自分に対し、偽者であると感じる症例がありそうなものだ。自分が自分でないような感覚については離人感などと呼ばれることがあるが、ここでいう偽者性はそうではない。自分は自分なのだが、“本物”ではないのである。そもそも本物が何かわからない。ここまでくると、哲学的な話になる。尾久は、こんなことを言う。「大谷翔平さんや、白鵬関は本物である」子供のようだ。
つまり、有名人で評価されている人は本物である。しかし、自分のように、慶應医学部院卒で、精神科の臨床医という学歴のブランドはあるが、詩人としては世間に知られていないので、偽者としか思えないと結論づけるのである。つまり、尾久にとって承認欲求を満たすことこそが、生きているリアリティであり、その評価が、トラディショナルで、誰もが知っていれば本物、そうでなければ偽者ということになり、専門職として成立していない現代詩人などは、偽物の典型となる。では、彼は何故詩を書いているのか?と考えると、表面的には素直に見える彼が、実は、かなりひねくれていて一筋縄ではいかないマゾヒスト(つまり、文学的な人間)であることがわかる。私は、本論で尾久守侑は肥大した自己イメージと被害妄想の間で、精神のギリギリのところで、かなりの覚悟で詩を生み出している、と結論づける。
『偽者論』と詩集2冊を読んでみて、社会の尊敬と信頼を得たエリートが、自分の記憶が偽者であり、フィジカルな接触を罪悪と考える時代を過ごしたフリークではないか、と考え、それを破壊したい衝動に悶えている絵が見えてきた。彼はこんなことを言っている。
「『人にどう思われるか』を感じ取るセンサーが過敏で、苦痛なまでに空気を読みすぎて人に合わせてしまう、そんな自分を偽者の仮面で隠していた。
その仮面を他人から暴かれる恐怖に怯えながら」(『偽物論』)
しかも、この頭の良い詩人は、常にある一線を超えない。しかし、器用に振る舞っているように見えても、それは専門詩人から見れば、極めていびつな光景であり、むしろ滑稽でさえある。そして、尾久は、それを笑うメタ的な自分すら飼い慣らしていて、その連鎖が無限に続く地獄を楽しんでいるようにも見える。
⚫️
『Uncovered Therapy』と
『悪意Q47』は、
同じスタンスで書かれた詩集である。コロナの始まりと終わりであり、
『偽物論』がど真ん中だが、間に医療の専門書を挟むことで、詩人として本物とは何かを追求したのが
『Uncovered Therapy』だろう。だから、読む人からすれば、臨床医であることを面に出しすぎているという風に見え、詩人として詩に集中していない、という印象になる。
まず、初めに悪意ありきと考えると、精神科医に悪意があってはならないのだから、それはアイロニーということになり、では、セラピーもアイロニーではないかという無限の疑問につきあたるのがこの3冊の仕掛けである。詩人は詩人にとっての苦しみを読者と共有しようとしている。それが詩人にとって詩を書く動機なのだ。では、時々出てくる隠しきれない本音をいくつか抜粋していこう。
『Uncovered Therapy』から、はじめる。
『Uncovered Therapy』
ねね 外れているよ
床におちた顔のパーツを拾った(「ジュラシック」)
生きているかどうかも知らない(「ジブリス」)
絶対的なこころの主体がいない(Jussai)
どこに行けばいいんだよ
泣いたような声に、(「X回目の空気旅行」)
死なせたかもしれないと
日常的に思う。(「朝の寝室」)
えらいえらいと、頭を撫でて
どエラい人を装って生き延びてきた。(「鬼」)
父さんちょっと聞いて
生きる、死ぬはうつくしいよね(「サバイバル」)
その露出狂的な言葉遣いに
みな親近感をもつと思っているのか?(「四谷心中」)
知的な快感が
さみしさに勝ることはない(「ウルスラ・コルベロ」)
誰もが記憶の強盗に襲われている。(p81)
お弁当持った?
手は洗った?
画面越しにお母さんは話しかけてくる(「閉域」)
新型感情を教えてくれ
新型感情を教えてくれ(「呪文」)
『悪意Q47』
抜け出せなくなっているのが俺ですと、明日の俺が云った。(「脱出物語」)
私は死んでしまう系統ではないが、別れることからは逃れられないのだ。(「反故」)
肉を撮る、肉を上げる、肉を食う
生きている気がして死にたくなる(「大人の地層」)
わたしは解体していく、きょうの日を無駄にくらして(「S SWなんてきらいだ」)
季節、いつだっけ。
ふとわからなくなる。(「片足」)
朝になって全てはなくなっていた。(略)別の世界線を生きていた。(「信じる世界線」)
私の詩友に親が脳外科医と心臓外科医という医者一族がいるが、彼の詩を読んでいると、医学的知見がそのまま詩情につながっていることがわかる。若くして、多くの死の現場を見聞きすることで、表現はある種達観していて、生々しい。しかも両親ともメスで脳と心臓を切る仕事となれば、日常会話の特殊性が想像できる。尾久は、手術はしないので、切り裂くような痛みや、フィジカルさは感じないが、彼自身は言葉というメスを使っていると表現しているように、やはり精神という肉を扱っている認識がある。
肉を撮る、肉を上げる、肉を食う
生きている気がして死にたくなる(「大人の地層」)
当たり前のことだが、現代詩は現代の反映である。しかし【詩】である以上、ポエジーによる新しい世界観や認識の開発が求められるし、その普遍性も問われるだろう。尾久守侑は、医学をポエジーの源泉にするというある種のタブーに切り込んできている。
加えて、澱んだ目をして、筋肉の弛緩し切った、日本の現代詩人に「本当にこれでいんですか?」と遠回しに問いかけている。それをギリギリの言葉で伝えている。そこにこの詩集の価値を感じる。
「VOY」はこの勇気ある混乱した青年詩人の、声なき絶叫に対する答えでありたい。