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【文学論】量子詩/シン感覚派

量子詩/シン感覚派の夜明け  
 
量子詩は量子論を世界の捉え方の基本においた表現であり、量子詩/シン感覚派は日本の1925年から始まった新しい文藝運動「新感覚派」と現代詩を接続する実験的な考えである。1920年代は、大正から昭和に変わる時代、第一次世界大戦が終わり、世界大恐慌が起こるまでの欧米の好景気、科学技術の革新、新しいテクノロジーや、新しい思想による価値転換、革命思想などが目まぐるしかった激しい時代だった。日本の文藝も、ヨーロッパの影響からそれまでの自然主義リアリズムを否定し、主観的、知的に再構成した新現実を感覚的に置換・創造する作風が流入し、文学形式や文体上の革命が意図された。それは、例えば、未来派、ダダイズム、表現主義といったものである。

『文藝時代』は、そんな最中、1924年(大正13年)10月に創刊された。誌名は「宗教時代より文藝時代へ」という意図で、発起人の川端康成により名付けられた。この既成文壇に対抗する新世代の作家たちの集団は「新感覚派」と命名され、横光利一や川端康成が大いに活躍した。


この時代に物理学の世界では、量子論が登場し、あっという間に、世界認識を変えてしまったことに異を唱える人はいないだろう。量子力学の基礎であるエルヴィン・シュレディンガーの波動方程式の発見は、新感覚派の台頭とほぼ同じタイミングである。それまでの物理学は、物体の運動は、ある初期値によって決まるというもので、いわゆる決定論だったが、量子論によって不確定で確率的、相補的であり、過去の因果律は成り立たないとされた。川端康成の科学的知見がどの程度あったかはわからないが、彼の文体は明らかに、未来の世界認識を予見していて、2025年の今になってやっとその価値を正当に評価できる素地が整ったことに驚きを禁じ得ない。文学はさまざまな方法で新しい世界認識を表そうとしてきたが、日本の現代詩は、抒情とモダニズムという、量子理論に比較的親和性の高い表現スタイルを、虚構、空論として排除してしまったため、生活詩と言葉遊びによる自己破壊しか残らなくなってしまったというのが私の推論である。美しい詩は書けたが、一歩も前に進まなくなってしまった。それはそうだ、自己を破壊して仕舞えばそれで終わりなのだから。私は、2017年にある病気で死にかけて、さまざまなレイヤーでの自己破壊を経験した。この自己分裂によって、表現のバリエーションもっ増えたのだが、それら全てはさらなる自己破壊のために書かれた。書きながら死にたくなる詩だ。何度か死と再生を本能的に否応なしに繰り返したことで、ふと気づいたのは、自己再生のためにも詩を書いているということだった。その詩はそんなに数は多くないのだが、破壊と対になって存在し、破壊の詩と再生の詩の間には相補性があり、しかも戻ったところが常に非対称であるため、実は無限に続けることが可能であるということだ。これは、まさに量子論のいうところの、不確定で相補的、確率的な世界観であり、もっといえば多元宇宙/多層世界を行ったり来たりすることが私たちには可能である、いうことである。観測物理学者のヒュー・エベレット氏は1957年、マクロな私たちの現実は、異なる宇宙の重ね合わせである、という多世界解釈を提唱した。無限の数の地球がパラレルに存在し、それぞれの世界では、実験結果も私たちの姿形も考えも変わっている、つまり、文章で記述するというのは、多世界選択の中からどれかを選ぶこと、また選ぶたびに世界は分岐していく、というものである。私の提唱する量子詩/シン感覚派は約100年前に、日本のモダニストが創り出した文学の新しい表現を取り戻し、ウィリアム・バトラー・イェイツやT・S・エリオットらによって創始された海外の現代詩(modern [contemporary] poetry))と合流させ、2025年からアクセスすることで、現代詩を、書くことが、生きることにつながる豊かなジャンルにしていくための、言葉による量子実験である。
 


量子詩/シン感覚派は、川端康成が横光利一とはじめた「文藝時代」の志を継ぐ。創刊時、川端康成は25歳である。彼はここで、数多くの掌編小説(400字から4000字くらい)に挑戦し、ダダイズムやドイツ表現主義や未来派など、ヨーロッパの新しい文学運動と連動し、前衛的な表現を実現するとともに、日本文学における洗練された短い小説が一つのジャンルとして成立することを夢見ている。それは、俳句や短歌のような世界最小の定型詩を生み出した日本だからこそ可能と考えていて、私たちもそれに共感する。異なるのは、それを小説として捉えるか、詩としてとらえるかであり、もちろん小説でもよいのだが、実際は、詩と小説の明快な区別はなく、詩と呼べる小説と、そうではない小説があるだけである。私たちは詩人なので、詩人としての川端康成を西脇順三郎や瀧口修造、北園克衛といったモダニズム詩人や、前衛短歌や自由律俳句と同列にとらえ、日本の近現代の文学史をモダニズムの観点で再構成し、日本の現代詩を世界の文学史の流れに組み込んでいきたい。そのために、必要なのは、日本文学における暗黒の歴史、治安維持と占領による言論統制の時間を、切り取り、100年前の自由な文学表現の時代を現代につなげる想像力である。戦争の原因や敗戦の理由を考え続けることも大切だが、文学がそれをすべて背負う必要はないし、80年間それを追及してきた。結果、今では同じところをぐるぐる回っているばかり、歴史として忘れないことは必要だが、文学はそれを乗り越えて前に進まなくてはならない。そうでなくては誰も読まなくなってしまう。戦後生まれの2世、特にZ世代以降の純文学に対する無関心は明らかだ。彼らの興味は、漫画、アニメ、ゲームなどのポップカルチャー、そこにはそうしたトラウマがない。なぜなら、漫画は1950年代から(手塚治虫のデビューが1947年、流行漫画家の孵化装置トキワ荘が52年)テレビゲームは70年代からという風に新しいカルチャーだから、表現がどこまでも自由だった。昭和の教育者や親はその悪影響を恐れ、禁止した。今日本経済を牽引するコンテンツはこれらであることに異論はないだろう。だから、戦前の自由な表現と今を直接繋ぐことで、漫画と同じような生命力を取り戻し、戦勝国と同じ土俵で文学を語ることができるのではないか、そう仮説をたててみた。川端康成が、その死をもって私たちに伝えたかったことは、おそらく純文学の正当な流れである。川端康成の孤独は、その資質があまりに鋭敏な詩人のものだったからだと思う。VOYが提案する新しい詩のスタイル量子詩/シン感覚派は半定型詩としてのひらがな短詩と現代風掌編小説としてのシン感覚詩小説(ニューセンセイショナルポエトリーノベル:NSPN)である。前者は【ひらがな短詩論】として、別途記述した。ここでは、現代詩と純文学は同じ芸術領域であるというのが前提である。ポエジーがあり、それが文字になっていれば、それは詩であるというのがVOYの主張である。


川端康成が、文学は宗教の代わりになる、と話していたように、我々の考えるポエジーは、宗教的であるかどうかが、重要である。日本人の場合、特に仏教と神道であろう。川端康成は、仏典を文学として考えていた。インドの仏典は元々詩である。宗教に共通するのは、人が知ることのできない偉大な存在があるいう点である。そのテーマは、「愛」「奉仕」「人の起源」「自由」「罪」「道徳」「超越者」「進化」「永遠性」など幅広いが、近現代のテクノロジーや戦争、格差に関わるものはない。AIや量子宇宙、遺伝子などに関する問題は、過去の宗教で解決するのは難しい。それらは文学の範疇である。ポエジーは人間の及ばない世界に想いを馳せ、何かをつかみ、それを言葉にしようとする衝動と考える。
 
散文が韻文か、物語があるかいなかの境界は曖昧である。小説の方が一般読者が多いため、詩を表現する媒体として、純文学の小説というジャンルが生まれポエジーの表現領域が守られた。それは、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治と続いた純文学の流れであり、イギリス文学を基礎とした詩学であり、どんなに美文であってもポエジーがなければ、詩人とは呼べない。芥川賞は、小説の中で詩に限りなく近いものを評価する役割で、あったが、その伝統は失われつつある。
 

量子詩/シン感覚派は、ちょうど100年前『文藝時代』創刊の1924年から日中戦争の始まる1937年と2024年を接続するアイディアである。川端康成は物心つく前に両親を失っており、自分も長く生きられないと思い込んでいた。川端の父が31歳、母が37歳で亡くなっているため、その年齢を一つの区切りにしていたと思われる。つまり1931年から1937年の7年間である。この間の川端は、創作も私生活も実に精力的であり、彼の成功と、時代の変化もそれを後押しした。実験的な小説を次々と展開し、すでに量子論を知っているかのような、文学の未来を予見しているかのような表現をしている。日本はヨーロッパのモダニズムがある程度普及し、日本のものになる前に、戦争によって文学そのものの表現を規制され、戦後の文学はプロレタリアート文学を除けば、「荒地派」のような世界の流れからは切り離された独特な観念論や、土方巽、寺山修司、唐十郎独特なフィジカルでエスニックな演劇を発展させたが25年で失速し、終焉を迎え、過剰な劣等感と自己嫌悪から、世界の文化的な流れから孤立してしまった。すべての自虐史観を一度止めて、文学を再度知的好奇心を刺激する、実験的、冒険的美学的なもののに戻していきたいという思いが私たちにはある。
 
川端康成は、こうしたことに極めて自覚的であったため、長く戦後ペンクラブの会長を勤め、ノーベル賞を受賞するまで、日本の若い文学者を育てたり、海外の文学者と関係を構築することに腐心した。戦前の川端は、青年のロマンティックな思いを軸に、モダニズムの手法を自分の作品に反映させるため、さまざまな実験をした。治安維持法が1925年に制定され、28年には共産党をはじめとした左翼の活動家が次々と拘束され、いずれすべての文学者に影響が及ぶのは明らかであった。 1933年に小林多喜二が逮捕され拷問され死亡、その事態の悲惨さは作家を震撼させた。川端康成は、父親の死んだ年齢である31歳から母親の死んだ37歳つまり1931年から1937年が自分の死期だと考えていた節があって、33年までにその退廃性を極め、時代の変化に合わせて、スタイルを転換する。35年から書き始めた『雪国』は、政治的要素の全くない、隔離された世界で起きた、純愛のファンタジーであり、川端がいかに時代を読み、文学を続けることを第一義に考えているのかがよくわかる。31歳で少し広い家に転居し、踊子・梅園龍子、画家・古賀春江のパトロンとなり、秀子との婚姻届を出した川端は、日中戦争までの7年間執筆に集中し、37歳で彼のライフワーク「雪国」に一度けじめをつけた。(6月12日に創元社より刊行され、7月に第3回文芸懇話会賞を受賞した。さらに続篇として以下の断章が各誌に掲載されそれは、自殺の前年1971年まで続く)37年までの主な作品を並べてみよう。
 
『伊豆の踊子』(1927年)
『浅草紅団』(1930年)
『水晶幻想』(1931年)
『抒情歌』(1932年)
『禽獣』(1933年)
『雪国』(1937年 )
 
戦争の間は、少女文学と国語教育に力を注ぎ、戦争とは距離を置いた。どっちに転んでも、作家としてマイナスになることをわかっていたからだら、戦後は、確立した文体を、ヨーロッパの文学者に認めさせるため、社交や社会的活動をはじめ、相当な無理をしながら山頂(ノーベル賞)を目指す。川端は戦後ペンクラブの会長を1948年から1965年、18年も勤め、1957年には世界大会を開催し、翌年、国際ペンクラブ副会長へ就任している。それは、日本の文学を世界に知らしめた一番大きいイベントだった。その後川端は、ゲーテメダルを受賞し、「ねむれる美女」を完成させ、アメリカ、ブラジルへ出かけ、フランスから勲章をもらい京都に住み「古都」を完成させた。戦勝国が、植民地主義への反省と、敗戦国の文化を守ろうとする動きがあるのは当然知っていた。とはゆえ1968年に、アンドレ・マルローやサミュエル・.ベケットに勝ち抜いた力は想像を絶する。川端はポストモダンや魔術的リアリズムを理解し、それをすでに超えていたのだ。私たちは川端康成の小説にこそ、純文学の本質、つまり現代詩の尊い遺伝子が残されているという仮説のもと、川端康成の小説を再解釈し、そこから日本のモダン→ポストモダンの流れを今に取り戻したいと考える。
 
川端康成は幼い頃、ある種の超能力を、持っていたと言われる。いわゆる神童である。見えないものが見えたり、予言したり、彼の作品の中に時々登場するそうした能力は、自分自身の経験によるものだ。
川端の大学の専門は英文学であるから、当時の時代の変化に敏感だったはずで、若い頃の作品には、モダニズムの影響が散見する。しかし、東洋の古典も、よく知っていたはずの川端は、西洋のモダニズムがアジアの模倣であることもわかっていたし、いずれくるポストモダン、その後の文藝(まだ、名前はついていないが)がどのようなものになるのかを予知していた。例えば『雪国』37年に一度完結している、しかし37年間、自殺の直前まで書き直されていて、今だに完成していないと筆者は考える。文字通り、終わりがない。始まりもない小説である。これは、ポストモダンの詩と考えて良いだろう。
 
そもそも、「国境のトンネルを抜けると」で始まる最初の場面は、主人公にとっては2回目の越後湯沢である。1回目は後から語られる。無限に増殖し、時間がもどり、変化する物語は、マルチバース的である。川端康成がポストモダンの先に見ていたのは、多世界解釈とフラクタルでネバーエンディングな物語 量子的で思弁的な実在である
時制や構造をもたない、意識と無意識、現実と非現実、過去と未来が溶け合った世界は、男と女、親と子、人間と非人間、現実と夢、あの世とこの世の区別のない輪廻転生の世界、それは仏教的世界と共通している。

私は東方の古典、とりわけ仏典を世界最大の文学と
信じている。私は経典を宗教的教訓としてでなく、
文学的幻想として尊んでいる。
(『文学的自叙伝』)1936
 
日本がモダニズムの先を目指すのであれば仏教しかないことを川端康成は知っていた。それは美術品の美しさと人間の美しさに区別がなく、性別や年齢にも区別のない、絶対的美や虚無の世界と通じている。アジア文学における本当の勝者は川端だった。モダニズムを完全に自分のものにし、ポストモダンの先を見つめていた。今やっと時代が川端康成に追いついた感がある。『文藝時代』では、未来派、ダダイズム、ドイツ表現主義の影響から、前衛的な作風を色々試した。その後のシュルリアリズムも新心理主義も彼は色々学び取り入れた。彼のスタイルは、古典的なようで、実は前衛の組み合わせによる川端康成独自のものなのだ。「浅草紅団」(1929)や「水晶幻想」(1931)など戦前の作品は今読んでも実に瑞々しい。33歳で「禽獣」を『改造』に発表、虚無的傾向が深まるが、35年から37年まで『雪国』の断片を様々な雑誌に発表し、最も前衛的で、実験的なポストモダン小説ん『雪国』の外枠が出来上がり、それが評価され、彼の仕事は一度完結する。世間を欺きながら、37歳までにいつ死んでもいいような作品の書き方を完成させた。短編の集積が 長編になるような書き方だ。そして、まるでそれを知っていたかのように日中戦争が始まった。戦争中は、傍観した。体が弱く、戦争にも行けず、たまたま生き延びた戦後は、表現スタイルを洗練させること、作品を世界に評価させることのために主に活動した。日本文学の頂点に立ち、アジアの頂点に立ち、それを不動のものとすることが若い頃からの彼の野心だった。生きている間に、それが叶うかもしれない。
 


彼の文学における主要なテーマは、不条理な世界と、純粋への憧れ、いずれ来る失望、超能力や呪術、狂気などである。死が身近にあり、そこに隣り合わせて、儚い美が生まれる。それらを表現する自分のスタイルが、近代的調和の全否定であり、つまりモダニズムのかなり先端であることを彼は知っていた。翻訳が難しいと言われるが、英文学を学んだ彼は、翻訳した時にどうなるかも十分に考えて書いているはずだ。ポストモダニズムと仏教の相性がいいのもわかっていた。自分が書いているものが、小説の仮面をかぶった観念詩であることも理解していた。物語が破綻しても平気なのは、川端が表現したいのはストーリーではなく、詩的直観だからだ。ヨーロッパ文学におけるて詩の優位性は当然知っていたし、漱石から始まる日本文学の正当な流れは、小説形式の詩であり、そこに純文学の名前をつけただけで、本来は詩であることは了解の上で擁護した。37歳で 海外より10年以上先回りしていた。だから、戦争で停滞しても問題なく、ベケットより早く、受賞したのだ。ヨーロッパで高く評価されるモチーフもよく理解していた。ペットへの偏愛を描いた「禽獣」、心霊的な幻想の「叙情歌」、ロリータコンプレックスの「眠れる美女」ストーカーの「みづうみ」は、強烈なフェティシズムとインモラルで、欧米のインテリを強く魅了した。
 
私の近作では「抒情歌」を最も愛している。
「死体紹介人」や「禽獣」は、出来るだけ、
いやらしいものを書いてやれと、いささか
意地悪まぎれの作品であって、
それを尚美しいと批評されると、情なくなる。
(『文学的自叙伝』)1936
 
国際的な活動や評価から、川端は自分が賞をとれることはある程度わかっていた。そのために緻密に動いてきた。逆に三島は、古いヨーロッパあるいは国内にとどまった。三島に推薦文を書かせたのは、川端がとるまで、三島が動けないようにするためでもあるだろう。愛する愛弟子と、競争をしたくなかった。それは三島も同じはず、三島は政治的な理由で割腹自殺をした。ノーベル賞をとっていたら、おそらく躊躇したろう。だから、三島にとっても、ノーベル賞をとらないことで可能になる行動だった。三島を失い、川端は理解者を失った。やることはやった。2人は日本文学史の中で、永遠の謎として一緒に語られるだろう。私は、2人の死を完璧な心中だと考えている。
 
三島が生前、批判的に川端の小説について、ある程度の批評しているが、実はそれこそが、ポストモダンの特徴であり、量子詩/シン感覚派の創作の方向性を示している。)それは、大きな物語が終わり、時間軸に秩序はなく、衒学的、引用とシミュレーション、普遍性の破壊、自己解体等々である。あるインタビューから抜粋する。
 
     「構成の乱雑さが一種の鬼気を生んでいる」
     「重複とか、抒述を前後させたりとか」
     「老人の少女への恋は青年対処女の亜種」
     「川端さんは文体を持たぬ作家になった」
     「中世文学の虚無主義と終末感に共通する」
     「暗いエロティシズム」
     「すべての人間関係がゆきずりなんだな」
 
これらは、確かに近代文学の観点からすると、的を得ているが、ポストモダン文学として捉えれば、川端康成の作品がいかに先端の考え方であるかを説明している。つまり、三島はこの時点で、古い時代にしがみつく滅びゆく種族になってしまっていて、川端はその責任の一端が自分にあることを自覚している。
     
     あえて不整合、不確定な構成
     多層世界 重層的な時間を同時に描く
     多義性 言葉の意味の多重性を残す
     魔術的リアリズム
     思弁的実在とニヒリズム
     スギゾフレニー
     始まりも終わりもない
 
「恋愛がすべて」とどこかで川端は言っていた。恋愛こそ、多世界解釈にとって重要な起点となる。それを川端は初めからわかっていた。見返りを求めない情熱的な思慕、親しい人の突然の死、病気、事故、自死、これらの経験は、作家に否応なしに量子的な世界を描くきっかけを与えるだろう。そもそも恋愛感情は、ある種の狂気であり、非日常、時間の混乱、ストーリーの破綻、不条理性などの点でポストモダン的なのである。私たち詩人も現代を描くために、もっといろんな恋愛をしなくてはならない。その情熱は、異性だけでなく、同性へも、美術品へも、芸術の才能や、日本の美しさそのものにも向かわなくてはならない。私たち日本人には、いくらでも模範がある。西行法師、藤原俊成、道元、利休、松尾芭蕉、、、たしかに日本においては、優れた表現は仏教関係者のものが多い。量子詩/シン感覚派は、100年前の日本文学の流派、1924年(大正13年)10月に創刊された同人誌『文藝時代』を母胎として登場した【新感覚派】へ、今の時代をダイレクトに接続し、そこから川端康成が完成させた時空を超越した新感覚(量子的感性)を学び、踏襲することで、世界の文学のトップランナーにキャッチアップしていきたいと思う。それは、思想的には仏教的量子論をアップデートさせることだろう。すなわち、この世に存在するものの全て中に仏がいて、自分と世界の区別のない色即是空空即是色の境地である。
     
自分があるので天地万物が存在する。
自分の主観の内に天地万物がある、
と云ふ気持で物を見るのは、主観の力を
強調することであり、主観の絶対性を
信仰することである。(中略)
万物の内に主観を流入することは、
万物が聖霊を持ってゐると云ふ考へ、
云ひ換へると多元的な万物霊魂説になる。
ここに新しい救いがある。
1925年、『文芸時代』新進作家の新傾向解説)
 
こうした、発言を裏付けるものとして、私は『水晶幻想』、その展開として『みづうみ』『山の音』に注目する。「意識の流れ」その延長・発展・洗練されたもの、それは実に量子的である。不確定で、揺らぎ、相補的である。読者によって内容が変わる。過去と未来が知らず知らずに交錯する。霊や魔術が日常化する。私たちは川端が小説によって実現した、量子的表現を、これからの現代詩に引き継ぐことができる。多宇宙理論の生命、進化、時間は、すべて仮想実在であり、人間の想像力がなければ形にならない。科学、数学、芸術、虚構は実は皆同じであり、詩は、作者の創造力によって、短い形と少ないエネルギーで、表現の基礎をつくる。詩誌『VOY』は、量子詩/シン感覚派を推進することによって、現代詩こそ世界認識、つまり人間の知性の表現であることを証明していきたい。


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