
デビッド・リンチ追悼 呪われたシュルレアリストとしてのリンチ
7月16日、敬愛する映画監督デビッド・リンチがお亡くなりになった。僕は、あまりにショックで、寝込んでしまったほどだ。まずは、彼の冥福を祈りたい。
しかし、この際彼の人生が、いかにアメリカの文化と社会において重要だったか、また彼が天性のシュルレアリストであり、特別な共感覚の持ち主であったことを伝えたい。
彼が生まれたのは、モンタナ州のミズーラという小さな町だった。そのすぐ北にはスタンリー・キューブリックの傑作『シャイニング』の舞台がある。1980年に『シャイニング』公開された時、リンチは『エレファントマン』を公開している。エレファントマンは、奇形のイギリス人の話である。リンチは、異形のものと絶世の美人の組み合わせが好きで、その対比を一つの美学にまで高めたアーティストだと思う。


それは、映像制作の初期の段階から始まり、彼がヨーロッパで高く評価され、ヴェニスで金獅子賞を受賞することになるシュルリアリスム三部作(僕が個人的に呼んでいる)は、ちょうど、キューブリックが公開前に謎の死を遂げる『アイズ・ワイド・シャット』を挟むような形で、撮影される。(都市伝説の世界では、キューブリックはモーツァルトオペラ「魔笛」でフリーメイソンの儀式を描いたことで殺されたように、映画でメイソンの儀式を描きすぎ、殺されたとされる)
【リンチシュルレアリスム3部作】
『ロスト・ハイウェイ』(1997年)
『マルホランド・ドライブ』(2001年)
『インランド・エンパイア』(2006年)
この3本の傑作は、映画というにはあまりに、アート的であり、興行的には決して良い成績はあげられていないと思う。そして、これ以降、彼が19年、映画に携わらなかったのは、映画は彼にとってあくまで動く絵画であり、表現の自由度を考えれば、圧倒的に絵画の方が上であること認識し、さまざまなオフォーを断ったからだと思う)


2006年。リンチは第63回ヴェネツィア国際映画祭にて栄誉金獅子賞を受賞し、映画史に不動の名誉を残すことになる。一方、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』は、1999年に完成し、公開を待たずして急死する。この差は大きい。キューブリックは、
何か踏んではいけないものを踏んでしまったのだろうか。想像力の逞しい人々は、ディープステートや、巨大カルト集団、あるいは一部の金持ちサークルの中で繰り広げられた、非人道的な営みを暴こうとしていたのではないだろうか。一説によると、キューブリックが生きていたら、例の謎の秘密クラブで繰り広げられる、最暗部、幼児性愛と、生贄の儀式が描かれていたのではないかと言われている。彼はなんらかの裏切りの代償を払ったのだろうか。何かの生贄になったのだろうか。僕には、この偶然の符合が、21世紀が始まる時に、過去の暗い歴史を一度精算しようという、人類の無意識が働いているのだろうと想像してしまう。
アメリカにとって。神話の中心はワシントンではなく、ハリウッドであり、神々は俳優たちであり、ネイティブアメリカンはその脇役あるいは地霊、邪霊である。それは、ブードゥー教やメキシコの原始宗教なども同様だろう。例えば、ホラー映画の定番である、ゾンビはおそらくブードゥ教であり、いまだにエクソシストや、呪いの人形、古い家、精神病、シリアルキラー、カニバリズム。カルト集団、宇宙人などは、恐怖の対象である。そこには、1968年以降のロックや、パルス・エンジェルスやKKKケネス・アンガー的な悪魔崇拝的美意識すら、関わっているように思われる。神々は、すでに一神教ではなく、アベンジャーズをはじめとした異形のスーパーヒーローたちである。西部劇でよく描かれていた、保安官対インディアンのようなステレオタイプはもう存在しない。自治権を与えられた500万人のインディアンとアメリカ人と折り合いをつけている。
映画の歴史を一度終わりにするために、選ばれた神官がキューブリックとリンチの2人だったと考えると、わかりやすい。とどめはゴダール(GOD)なのかもしれないが。あとは誰かいるのだろうか。いないなあ。
双方、暗く、変わった人間だが、圧倒的に異なる点は、その暴力性である。リンチは。僕の見るところ、サイコホラーの仮面をかぶった平和主義者である。まさに、あのころの時代に必要とされた表現だと思う。
リンチの父親は学者であり、論理的権威的だった。一方キューブリックの父は医者であり、権威的、権力的かつ暴力的だった。こういうふうにして考えると、ふたりとも古いパラダイムつまりエディプスコンプレックスに強い影響を受けており、それと戦うことが、おそらく表現の動機になっている。
「シャイニング」は、父親の理不尽な暴力が、家庭を崩壊させ、子供にどんな影響を与えるかを描いているという解釈ができる。また「イレーサーヘッド」は、期待に応えない子供を父親が間違って殺してしまう物語である。明確な暴力と結果的な暴力、それはインディアンにとっての、まさに、ザアメリカではないか。
つまり、これらの作品はエディプスの時代つまり、戦争と植民地の時代の終止符なのである。
それらは、アメリカの西部で、撮影された。スペイン人によって植民地化され、イギリス人によって徹底的に殺戮されたこの地において。
リンチは以前、表現の美しさについて、こんなふうに定義している。
「美しいのは行為そのものだ」
つまり、論理や、言語や、風景や、物語に美があるのではなく、踊ったり、びっくりしたり、恐怖に駆られたり、走ったり、歌ったり、座ったりすることに美しさを見つけると言うことだ。倫理的な問題や政治的な問題、あるいは美学的な問題は、つまるところ、彼にとってはエディプスの問題であり、インディアンにとっては、植民地支配を強要するあまりに暴力的な、皆殺しの天使、イギリス人(ヨーロッパ人)に対するものなのだ。


また、別な時に
「多くを語らなければラストシーンは美しさを作る」とも話している。謎は、美しさの基本要素であると考えているのだろう。それは、言語の権威に対する徹底的な反抗だ。
リンチはいわゆる天才肌であり、直観で想像した。それに理屈や調整や修正を加えない。そこから生じる理不尽さは、感情の流れに沿っているため、実は無意識的な合理がある。観客は意味を考えず、物語に身を任せればいい。不思議の国のアリスのように。リンチの言語と、文法がある。それは、難しいものではない。リンチは音を色で見たり、色を味で感じる共感覚の人だ。そして誰しも少なからず、この能力はある。疑問に感じることなく、素直に受け止めるしかない。
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こういう大胆な仮説はどうだろう。彼は、生まれた時からシャーマンだった。彼が、生まれたモンタナは、多くのインディアンがアメリカ人によって殺された。リンチはその感受性の高さから、何らかの目的のためにネイティブ・アメリカンの神々から生まれつき選ばれた存在だった。
一方キューブリックも同じ能力を待っていたが、家庭環境が大きく異なった。彼のトラウマは、ほぼ限界まで達していた。彼は正当な教育を受けていない。ドロップアウトした存在だった。母親はその愛情で、彼の創造性を承認し賞賛し守った。まさに「シャイニング」に描かれている世界である。「時計仕掛けのオレンジ」の破壊衝動は、キューブリックの父親に対する衝動の激しさそのものだろう。
そういうわけで、キューブリックの表現は、リンチより、より直接的、破壊的、挑発的になる。イギリスという、土地柄もあったせいか、神智学とフリーメイソンの奥義を知り、それらはキューブリックを、支配しようとしたろう。モーツァルトがそうされたように。キューブリックは、おそらく最後まで戦った。トムクルーズというサイエントロジーのエバンジェリストの力を借りて。キューブリックは、ハリウッドで、ネイティブアメリカンの声を聞いたのかもしれない。それは、キューブリックにとって究極のホラーだったのだろう。それが、巨大な冬のホテルで、多様な怨霊たちに体を乗っ取られ、蝕まれていく作家(キューブリック)と逃げ惑う家族というホラーの金字塔の完成に導いた。
20歳年下のリンチは。まだ、一作目の「イレーザーヘッド」を完成させたばかりだったが、2作目もモノトーンのゴシックホラーでいくことの手応えを感じていた。しかもキューブリックの母国、イギリスの物語である。ここで2人は一度役割を交換する。僕はこうしたことを、「世界の無意識の発動」と読んでいる。アーティストは大概こうしたことを無意識にする。詩人は、時にそのカラクリを理解する。



19世紀の前半から、イギリス人を中心とした入植者が、殺したネイティブアメリカンの数は、一説には数100万人、部族は数十と言われる。今でも500以上の部族が残り、600万人のインディアンが住んでいるのは1960年以降、公民権運動によって、彼らの民族的アイデンティティを認めるようになったからである。
「テカムセの呪い(Tecumseh's Curse)」という有名な伝説があった。テカムセはシャウニ族のリーダーであり。先住民同盟を作り、入植者と激しく戦いました。彼が戦死する時、アメリカの大統領、20年に一度、任期中に死ぬ運命の呪いをかけたらしいのです。
ここからは歴史的事実です。こんなこともあるのですね。
就任年度
1840年: ウィリアム・ハリソン
わずか31日で病死(肺炎とも言われる)
1860年 エイブラハム・リンカーン
1865年に暗殺。
1880年 ジェームズ・ガーフィールド
1881年に暗殺
1900年 ウィリアム・マッキンリー
1901年に暗殺。
1920年 ウォレン・ハーディング
1923年に心臓発作
1940年 フランクリン・D・ルーズベルト
1945年に脳卒中で死亡。
1960年 ジョン・F・ケネディ
1963年に暗殺。
1960年代から、公民権運動によって、黒人の権利だけでなく、インディアンの権利も認められるようになり、彼らの文化的アイデンティティも大切に考えられるようになり、経済的な基盤もできたため、人口は一気に増え、もとに戻った。120年以上かけた、呪詛戦争は、こうして、解決の道を見つけることになったのです。リンチとキューブリックは、ハリウッドという神話装置においで文化的価値を急展開させるための役割を担うことになったのです。
リンチの映画の独特なスタイル、感覚、雰囲気、語り口、登場人物、風景、街、ユーモア、ホラーこうしたものをまとめてリーチアンと呼ぶ。それはどこから生まれたのだろうか。私はそれを、1人で部屋にいる時に、精霊たちとの会話で培われたと考えています。私もリーチアンがとにかく好きなのだが、その理由はよくわからない。現代美術だとタピエスに共通を感じる。


おそらく日本でもアメリカでも、今はまだ、リンチを純然たるアーティストと考えている人は少ないと思う。それは、ジョージ・ルーカスや、スピルバーグと同じである。彼の映画の成功は、ジャンル的には、ゴシックホラー、クリミナル、ミステリーであり、表現方法がいささか変わっている、というのが一般的な彼の作品の見方だからだ。その点ら日本の詩人広瀬大志に似ている。しかし、ヨーロッパにおける彼の評価は、明らかに、シュルレアリストであり、ルイス・ブニュエル(1900-1983)の後継者の位置付けだと思う。映像詩の文脈だろう。VODの前にキャリアを終えているし、自分が望まない作品をやらない姿勢は、多くの映画作家を勇気づけるだろう。
彼は邪悪なものを好んで描いた。それはインディアンの視点から見た時のアメリカ人が描かれている。


リンチは、多くを語らなかった。それは、マルセル・デュシャンのやり方と同じである。彼らは同じ街フィラデルフィアに2年間住んでいた。おそらく会ったことはないだろう。マルセル・デュシャンの主要な作品はこの街に今でもある。リンチの言葉からデュシャンの話が出たことはない。しかし、アートを志していた人間が、デュシャンを知らないはずがない。おそらく世間の細かい反応が嫌なのだ。そして、それはデュシャンもそうだったはず。彼らは、別な存在に、縛られていた。デュシャンに取り憑いていたのは、おそらく錬金術師が呼び出してしまったものだ。リンチは、デュシャンを参考にしろと誰かに言われていたはずだ。そこで、動くアートを思いついた。それを試しに発表したら、とんとん拍子で予算がついた。
いつのまにか、リンチは現代アートの映像作家になっていたのだ。現代アートにおいて、最も気をつけなければならないことは、量産し、説明して、消費されることだ。作品はできるだけ少なく、スキャンダラスに、ミステリアスに、そこに、謎と毒とエロスを散りばめる。説明はしない、その原則を守りたい。それを願った。アートが消費されないため。
さかし、リンチの踏み出した世界は、エンターテイメントの世界だった。大きなお金が動く。世間が注目する。それはそれでよかった。インディアンの精霊との約束を果たさなくてはならない。それは、必ず三つの作品をつくり、世界に公表しろという話だった。それは、家の中にいるミステリーマン、記憶喪失のリタヘイワーズ、呪われた映画の話その三つだった。
次に精霊はこう話した。1980年にイギリスのスタンリー・キューブリック監督が『シャイニング』という、モンタナの呪いの映画をとる。世界で最も悍ましいと言われるホラー映画だ。しかし、明らかに現代アートの文脈である。お前は、それに合わせてイギリスのエレファントマンの話を映画にしろ、それで大きなお金を作れる。リンチはその時を待った。そして、みごと興行的に成功を収め、続いて『プルーベルベット』を、成功させた。精霊からの指示はプルーベルベット 草むらの耳 だけだった。大成功だった。
いよいよ約束を守る時が来た。シュルレアリスム三部作。このころ、おそらく、リンチはもうマーケットには興味がなく、どうやって映画史に名前を残すかだけを考えていたのだろう。彼特有の、「夢の論理」を基盤にして非線形の物語構造は、彼のスタイルになった。いわば、「エレファントマン」は「階段を降りる裸婦」であり「インランド・エンパイア」は遺作「エタンドネ」そして。「ツインピークス」は「彼女の独身者によって裸にされた花嫁さえも」といえよう。
モンタナ州のミズーラで生まれたリンチは、生まれた時に、インディアンに名前をつけられた。ツインピークス。誕生日には、教えられた砂絵を描いて、踊らないと死ぬ、と言われ両親はそれを守った。彼がいつシュルレアリスム的な表現に惹かれていったのかはわからない。フランスでそれが盛り上がった時、アメリカでは抽象表主義が席巻していた。リンチは、シュルレアリスムの手法を使う以外に。自分のビジョンは実現できないと学んだ。動くアートはデュシャンがもう始めていた。ワシントン州の犯罪の街で、妻と多くの恐怖体験をし、それが彼の肥やしになった。犯罪者の気持ちや事件のリアルな雰囲気を理解できるようになったからだ。撮影の条件は揃ってきた。アメリカには、まだベトナムがあったし、各地にインディアンがいて、ヒッピーが跳梁していた。撮影におあつらえ向きな廃墟ビルもあった。

彼はどこまでも礼儀正しく、謙虚で、魅力的で、淡々としていたが、摩訶不思議な信号のように指をくるくると回す。そういう時、彼は精霊から答えを求めていたのだった。質問に対する答えはいつも決まっていた。こうして、彼は、経済的に成功した唯一のシュルレアリスト(アーティスト/詩人)になり、人類史に刻まれた。アメリカ大陸における植民地問題は一世紀たち、一度ペンディングになった。
最後に、インランドエンパイヤのラストシーンを見ておこう。それは、おそらくキューブリックの、アイズワイドシャツト同様大きな予言を含んでいるに違いない。
インランドエンパイアのラストシー
