中原中也と高橋新吉の切ない話
中原中也は初対面の高橋新吉宛の手紙で、こんなことを書いている。これから知りあいになろうという人に、図々しく好き勝手書いた論評を送るとは、実に中也らしいが、その内容の主旨は、最後の方のこの一文に尽きる。愛の告白である。
僕は貴兄の好きな無名の者です
中也は、高橋新吉を評して、こんなことを書いている。以下要約、「新吉はヒューマニズムから出発し、それを理論化することでそれを失っている。意識は常に前方をみて、夢想を現実として捉えた。彼にとって、いわゆる整った伝統などは堕落である」
高橋新吉は萩原恭次郎とともに、ダダイストとして知られる。日本におけるダダイストは、アナキストとして捉えられることも多い。ヨーロッパのダダは、シュルレアリスムとコミュニズムに発展的に統合され、結果、資本主義陣営の反共の狼煙によってほぼ殲滅される。保守派にとってアナキストはある種の気狂いであった。
『赤と黒』は、1923年(大正12年)1月に萩原恭次郎により創刊されたアナキズム詩誌である。岡本潤、政雄、小野十三郎らが参加している。同年に『ダダイスト新吉の詩』が出版されている。関東大震災は、全てを破壊し、彼らの預言は現実になった。
詩とは爆弾である!詩人とは牢獄の固き壁と
扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!
1924年同人誌『ダムダム』が創刊された。『赤と黒』を継承拡大した雑誌である。ここに新吉が合流した。このころの新吉は今でいうところの統合失調症だったようである。彼は11歳で母を亡くし、父子家庭で育った。28年に愛媛に帰郷し、精神病院に入院するが、小学校の校長だった高橋の父は自殺、病状はますます悪化した。座敷牢に監禁され、長篇詩「戯言集」を創作した。中原中也は、23年以降、新吉をずっと慕っていたが、死の直前、新吉にぶん殴られている。荒々しい時代であった。
長男を亡くして錯乱状態に陥った中也は、
昭和12年初頭に1か月の入院生活を送った。
郷里の山口県に帰郷する最後の詩人仲間と
の飲み会で、酔って絡んでくる中原を俺は
ぶん殴った(高橋新吉の文の要約)
ひ、ひどい。
これは、新吉の中也に捧げた詩である。中也に僕らは、フランスのランボーのような美少年像を求めるが、実際の中也は手足が短く、浅黒い顔の出っ歯でブ男だったらしい。新吉も小林秀雄も今でいうイケメンである。もしかしたら、そういうバイセクシュアルの憧れが中也にはあったのかもしれない。
「中也像」抜粋 1959高橋新吉
スペインの宮廷画家ヴエラスケスに/中原中也像がある/中也は白痴では決してなかつたが/ヴエラスケスは/手の短い男が足を投げ出している無頼な姿を描いている/三百年以前にヴエラスケスは死んでいるが/中也は死んでからまだ二十年あまりだ/それなのにわが★愛する詩人中也を/ヴエラスケスがモデルにしているのは不思議である
文中、新吉は「愛する中也」とはっきり書いている。
中也の死後、22年、愛の告白に遅すぎることはない。
まさに汚れちまった悲しみを字でいく切ない話である。
↓これが中也とはねえ