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フッサールから始まる 現象学について考えた

【フッサールの現象学は哲学のルネッサンスである】
最近、フッサール(Edmund Husserl)の名前をよく聞くようになった。現象学の創始者として、メルロ・ポンティの師として。実存主義やポスト構造主義の生みの親として。日本人は、現象と言われてもピンとこない。観念に対立する言葉として、現象なのか?と考えたりもする。
それは、経験、行動、心理、生活、環境のような広がりのある印象である。簡単に言うと「より生身の人間らしい」ものである。そして、静止的ではなく、空間や時間の広がりがあり、動いている。フッサールは、哲学における人間性の回復を行った点で、ルネサンス的である。

フッサールの考え方について簡単にまとめる。

❶現象学の目的は、私たちがどのようにして物事を知覚し、意味を与えるかを理解すること。つまり、私たちの経験する世界の構造を明らかにする。

❷意識は常に対象を持つ。それを意向性(志向性)と呼ぶ。
❸エポケー(除利)とは、先入観を一時的に脇に置き、本質を探る手段。
❹本質は直観する。それを一般化する。詩人に近い。
❺時間は流れであり、意識が作り出す。


経験と直感、詩人の営みを哲学に接続したことが、フッサールの偉大な点。これにより哲学が形而上学をのり超えることが可能になった。願望や感情や知覚も思考であり、思考とは経験であるという考え方は、私たちにはしっくりくる。

『論理学研究』においてフッサールは意味を判断/言い表すこと(Aussage)ととらえ、その重要性について語る。同時に「意味とは対象を探索する手続きである」と言う。意味とは、探索のための仮の判断としてのみ有効なのだろうか。つまり意味は本質ではないということになる。意味とは本質的なものだと考えていた。

メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)は、フッサールの弟子であり「意向性」や「エポケー」といった基本概念を学び、知覚や身体に関する新しい視点を見つけた。
『知覚の現象学』(Phenomenology of Perception)とにおいて、身体を通して世界を知覚する体験の重要性を強調した。「意識」は自己と世界とを関係づける。メルロ=ポンティは、知覚が常に身体的であり、具体的な状況の中の経験が意識をつくるとする。ここで、身体的知識は、知覚をより具体的に理解するための鍵となる。それにしても身体的知識とはなんだろう?言語化可能なものだろうか。

フッサールは主に認識論的な問題に焦点を当てたのに対し、メルロ=ポンティは身体がどのように世界と相互作用し、存在を構成するかについて述べた。それを「身体是/身体性」と言う。

現象学は、ポスト構造主義(デリダの脱構築やフーコー)、ハンナ・アーレント、神経生理学、エコロジー心理学などに結びつき、現在ではジェームス・ギブソン(1904-1979)アラン・バディウ(1937-Alain Badiou)とリチャード・ランガー(1879-1950Richard Langer)に発展する。

ジェームス・ギブソンはエコロジカル心理学により、環境と知覚と行動について論じた。アフォーダンスは彼の生み出した概念である。

アラン・バディウは「イベント」と「真理」という概念により、存在と出来事の関係や真理の構造を探求した。「イベント」とは、特定の出来事、事件であり、それが個人や集団の存在において重要な転機となると考えた。また、数学の集合論を通じて「存在」の概念を再考する。

リチャード・ランガー(Richard Langer)は芸術、言語、および感覚の哲学である。感覚的経験は知覚や理解の基盤であり、芸術がこの経験をどのように豊かにするかに注目した。言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、意味生成の主体であるとした。

フッサールの現象学は、人間中心の哲学を発展させるために、重要な基点となっている。そういう意味で、哲学におけるルネサンスと考えるのは、間違いではない。

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