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映画「ゆきてかえらぬ」についての

僕らの世代の、一時でも、文学に人生を賭けようとしたことのある者にとって、【小林秀雄】と【中原中也】の、長谷川泰子という美しく自由奔放な女優を間に置いた関係こそが、文学そのものであった時代があった。ある時期、大袈裟でなく小林秀雄は日本語そのものを支配していた。僕らは大学受験のために、四苦八苦しながら、彼の批評や評論を読んだ。そして、ドストエフスキーやモーツァルト、本居宣長を彼の言葉で理解した。

僕らにとって、小林秀雄を理解することこそが、日本語を理解することだったのだ。小林は、その筆の力で、夭折した【中原中也】に対する愛情を貫き、彼をもう一つの日本語の頂点へ押し上げた。中也が死の直前に、鎌倉で小林秀雄に語った「ああ、ボーヨー、ボーヨー※」の言葉とともに。「汚れちまった悲しみ(山羊の歌)」「ゆあーん ゆよーん(サーカス」)そして「珪石の煌めく蝶の舞う河原(ひとつのメルヘン)」が、僕らの心の奥に存在し続けるのは、小林秀雄が人生を賭けて、中也の文学を守ったからだ。文藝とは、そういうものであった。

令和の時代に、この2人の物語を描くのは、まるでディカプリオが演じたランボーの映画(「太陽と月に背いて」
1995年)の如く、危険に満ちた挑戦だが、広瀬すずという女優に日本の芸能界が、何を期待しているのか、を垣間見る。それを担うべき監督が、これ以上ないだろう脚本家と組んで作品を完成させた。〜太宰の「ヴィヨンの妻」を映像化した根岸吉太郎監督(74歳 東北芸工の理事長 僕の大学の先輩)と、鈴木清順監督の「ツゴイネルワイゼン」の田中陽造(85歳 同じく先輩つまり 根岸監督の先輩)の脚本、そしてTVアニメ「呪術廻戦 懐玉・玉折」の楽曲「青のすみか」を作曲したキタニタツヤ(28歳 東大美学出身 つまり小林秀雄の後輩)の音楽。

作品の記憶が、令和の若者の記憶に少しでも残り、日本の文藝の火が未来永劫続いていくことを、僕は大いに期待する。それは、根岸監督も田中陽造も同じ気持ちだろう。満を持してこれを世に残すのだと思う。このエピソードを映像として残さずして何を残すのか、という気持ちを、僕は共有する。それを嬉しく思う。

神経と神経のつながりによって、それをここに書き残す。

※ 「二人(中原中也と小林秀雄)は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何んだ」「前途茫洋さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は眼を据え、悲しげな節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った」(小林秀雄「中原中也の思い出」 1949年 より抜粋 中也は1904年に30歳で死んだ この文章は、死の半年前の出来事についての散文である)


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