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「子ども主体の保育が分からない」

「私は大人が主導する保育を受けてきたので、子ども主体の保育のやり方が分からないんです。」

子ども主体の保育を本質的に理解している人がどれだけいるか定かではないし、必ずしも大人主導の保育を受けたからといって、子ども主体の保育が理解できない、というわけでもないはずである。
しかし、もし子ども主体の保育を受けてきた人なら子ども主体の保育は理解しやすいかもしれないと思う。当然だが、身近に子ども主体の保育があり、それを経験してきたからである。

大人主導の保育では、大人の思い描くゴールに向かって子どもを走らせる。
子どもがそのゴールに向かっていないと分かると大人は口を出す。昭和であれば手も出していた。
大人主導の保育では、子どもがしてはいけないことが明確であり、大人が決めたことに対して子どもが疑問を挟む余地が限られている。
子どもにとって、自分の頭を使って考えた疑問や興味を口に出すことが憚られる環境である。次第に子どもは考えることを止め、大人の指示に従順になる。その指示に疑問を感じたとしても、子どもは指示通りに実行する。
指示通りに動いたことで成功することもあれば失敗することもある。成功すれば褒められるかもしれないが、失敗したときに「先生の指示が悪かったね、ごめんね。」とはならない。
大人も同様だが、結果に関わらず納得感のない行動を強いられることは自らの尊厳を傷つけることになりかねない。これは自己肯定感の低下を導く可能性があり、人生経験の少ない子どもにとってその影響は大きい。

もし自分が大人主導の保育を受けてきたとすれば、子どもにもそれを受けさせたいだろうか。
多くの保育士は大人主導の保育に疑問を持つ機会がなく、自然と大人主導の保育を行っているのではないかと思う。つまり大人主導の保育をやりたくてやっているわけではないのだ。彼らは自分が行っている保育が大人主導の保育であることや、子ども主体の保育というものを知らないだけではないだろうか。
自己流でありながらも、子ども主体の保育に挑戦したことがあるという保育士は多い。しかし、子ども主体の保育は子どもがその変化に慣れるために時間が必要だったり、大人の忍耐力も必要である。また園や保護者の理解と協力も必要になることがある。
そのような理由もあり、子どものことが大切ではあるが、園やクラスを運営することに保育士は忙殺され、いつの間にか大人主導の保育に戻ってしまうのである。

子ども主体の保育は、子どもの自立(子どもが自分で適切な援助を求めることができるようになること)を目的として、子どもを信頼して待ち、子どもと対話を続けることが重要になる。
一見、放任と混同されがちな子ども主体の保育だが、どのようなかたちであっても常に大人と子どもが対話をしていることが一つの大きな特徴である。

覚悟を持って始めてしまえばそれほど難しいことではない。子どもを観察し、子どもの特徴や成長度合いを把握する。それに従って子どもに寄り添う。
「子どもを叱ることは最大の手抜きである。」といった先生がいた。子どもが自分から行動を起こせるようになるために、大人が子どもを叱ることは逆効果だ。
子どもは信頼関係が出来れば、大人の言葉にもしっかり耳を傾けることが多い。叱ることを放棄し、子どもとの信頼関係を築く努力をすることが子ども主体の保育では大切になる。信頼関係が出来れば、子どもは大人と対等に物事を考え、自分の意思でその場に応じた選択が出来るようになる。

大人から見ると子どもは未熟だと思うところがあるかもしれない。
しかし子どもは多くのことを理解している。特に人の感情を読み取る能力は高い。その能力を大人の顔色を見るために使わせてはいけない。
子どもは、叱らずに、自分の作業を待ち、話を聞いてくれるあなたのような保育士をいつも待っていて、子どもがその存在に気付けば、きっとあなたの保育を好きになってくれるはずである。

子どもに何かを届けるには時間がかかる。
決して焦ってはいけない。
結果が出ないからと諦めてはいけない。
挫けそうになることもあるが、同志となるような理解者の助けを得て、時間をかけて挑み続けなければならない。

これが子ども主体の保育における乗り越えるべき一番のハードルだろう。


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