見出し画像

人は慣れる。そして、埋没する。

過去の原稿。1年半ほど前の執筆だろうか。

1それでも本気になれるか

人は慣れる──どんな変化にも次第に人は慣れていく。教師も同じだ。「新学力観」で教師は観点別評価に慣れた。「ゆとり教育」で教師は総合的な学習の時間に慣れた。PIZAショックに伴う「学力向上路線」で教師は全国学習状況調査に慣れた。この十年で「特別支援教育」にも慣れてきた。どれもいまや教師たちは「普通のこと」として対処している。ただし、どれもこれも目に見える成果を上げたわけではない。おそらく数年もすれば教師たちは「教科書道徳」にも慣れ、目に見える効果を上げないままその日常に埋没させることだろう。

特にこの度の道徳授業の改革は教師にとって、新しいことに取り組まねばならないタイプの改革ではない。自分の頭で考えなくても教科書が「やればいいこと」を提示してくれる。通知表に所見が一つ増えるのは面倒だが、それに適応できないほど教師は無能ではない。しかも多くの地教委が「教科書を逸脱するな」「評価には確かな元資料を」とのみ言っているこの状況においては、教師たちが「35時間やればいいんでしょ」「ポートフォリオ作ればいいんでしょ」になるのは必然。すぐに道徳よりは次の改革へと視線を移して行くに違いない。道徳は学校教育の主役にはなり得ない。 教科研究が「趣味」と意識されているように、部活動が「趣味」と意識されているように、道徳研究も道徳授業づくりも、職員室では学級経営や教科研究、部活動よりも一段低いものと位置づけられた「趣味」として意識されるに違いない。おそらく十年後、二十年後に至っても、道徳が教科化された成果が目に見える形で我が国の国民性に著しい変化を及ぼしたと評価される日はついぞ来ないであろう。

それでも本気で取り組む。何事も改革の成否はその人たちの肩にかかっている。

2 現実的に、深く考える

教科書道徳には「外挿」の視点が不可欠である。テキスト中に直接的には表現されていない情報を推測し、条件をさまざまに変えてみる、そんな活動が子どもたちの思考を喚起し、当事者意識を高めていく。

例えば、高学年教科書で全社共通に取り上げられている教材に「手品師」がある。定番教材なので物語の説明は省くが、このテキストをいくら読んでも「約束は守るべき」という結論しか導き出すことはできない。手品師の将来をいくら予測したところで情報がないので考えようもない。いくらこの問題を取り上げても、「約束を反故にしてまで自らの成功を追求するのはいかがなものか」「それでも自分なら約束を破ってしまうかも……」といった、根拠のないやりとりが繰り返されるだけである。

しかし、外挿的条件を付与すればさまざまに思考は喚起される。

①この少年の両親が離婚していたのだとしたら。
②この少年の母親が生活保護を受けているのだとしたら。
③この少年が母親の不在がちをよいことに非行に走っていたとしたら。
④この少年が学校で周りの子どもたちに暴力を振るっていたとしたら。

このくらいにしておくが、「それでもこの自らの成功を放棄してまで約束は守られるべきか」という問いが成立するだろう。人の生活というものはもっと具体的である。子どもたちもこうした条件が一切想定されないままに手品師に判断を迫る、この教材の欺瞞性にも目が向くはずである。

①手品師に貧しいから結婚することのできない可憐な恋人がいたら。
②手品師に貧しさに耐え苦労し続けてきた、長年連れ添った妻がいたら。
③手品師に医療費を払えないために治療をうけさせてあげられない母親がいたら。
④舞台に立つことを勧めてくれた友人に手品師がかつて大きな迷惑をかけている経緯があるとしたら。

こうした条件に従ってさまざまに考えていくと、「約束を守る」とはそう単純な話ではないということが見えてくる。そして現実とは「約束を守ることは正しい」などという狭く綺麗な判断が必要とされるもではなく、もっと混沌とした条件の中で忸怩たる判断をなさねばならないものなのだということが扱われることになるだろう。

行政が教科書を使うことを求め、行政が「主体的・対話的で深い学び」を標榜するのなら、例えばこうした授業で道徳授業を機能させていくという手がある。

3 縦・横でコラボする

教科書のテキストをそのまま用いて授業するということは、教師の視座がそのテキストのみに焦点化することを意味する。私は国語教師なのでよくわかる。人はテキストを読み込むとそのテキスト世界のみに耽溺しがちになる。テキスト内から言葉の用いられ方を分析し、それを教材化することを求められる、つまりはテキストから離れることを禁じられることを旨とする国語科であればそれも良い。しかし道徳にこの縛りはない。テキストから離れ、自らの経験と照らし合わせて議論することが許される。許されるというよりも求められている。そこに当事者意識が生まれるとさえされる。とすれば、教科書内のテキストに耽溺するような教材研究ではなく、自ら教材を発掘するような教材開発こそが求められるはずだ。問題はそれを、行政が求めるような教科書道徳、もっと言うなら「教科書一辺倒道徳」とどう齟齬を来さないように工夫するかという視点である。

私は次のような二つの授業形態で考えれば良いと考えている。

①縦のコラボ
教科書教材を読んだ上で、それと内容的に関連する自主教材を扱う授業形態。或いは自主教材を扱った上で教科書教材を読んでいく授業形態。

②横のコラボ
教科書教材ともう一つ自主開発教材を並べ、両者を比較・対比しながら進む授業形態。

これならば行政側も文句を言えないだろう。しかもこうした授業形態は、教科書テキストに耽溺するような教材研究からは決して生まれない。これまでどれだけ自主開発教材の道徳授業をつくってきたか、そしてこれからもどれだけ自主開発教材の道徳授業を作り続けていくか、大げさに言えばそうした「歴史性」を持つ者にしかこうした道徳授業はつくれない。そしてそれは、冒頭に掲げた「それでも本気で取り組む教師」にしかできないことなのだ。

四月から、中学校でもいよいよ「教科道徳」が本格化する。私は①外挿的条件付与による教科書テキストのみを扱う授業を「ソロ」、②自主開発教材と教科書テキストを縦列に並べて扱う授業を「縦のコラボ」、③自主開発教材と教科書テキストを並列に並べて扱う授業を「横のコラボ」として、この三つの授業形態を縦横無尽に駆使したカリキュラムを開発しようと目論んでいる。いま、その階段を一つ一つ昇っているところである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?