見出し画像

学びのダイナミズム

1.閉じられた発問と開かれた発問

発問・指示・説明の三つを合わせて「指導言」と呼びます。僕は「発問=思考の喚起」「指示=行動の喚起」「説明=認知の喚起」とその目的を分けて捉えています。

長く、授業のキモは発問であると言われてきましたが、この場合の「発問」はほぼ「指導言」と同意です。事前にどのように説明し、ぞの後どのような問いを発し、最後にどのように解決するかの手立てを指示する。「授業のキモとしての発問」はこの三つがセットで考えられてきたように感じています。問題は長く、この三つが分けて考えられてこなかったことにあるのではないか、そんなふうにも感じています。

授業は、子どもたちが認知や認識を広め、深く思考し、何らかの行動指針が生起する、ということが目指される営みです。その結果、学校外においても、子どもたちが自らの認知や認識に従って、或いは目の前の事象を前にしてそれに新しい解釈を施し、深く思考し、見出された行動指針に従って自らよりよいと信じる行動をとるようになる、ということが目指されます。とすれば、授業における認知・思考・行動は、学校外の実生活における認知・思考・行動と相似形をなしているのが理想と言えます。

おそらく、昨今の授業研究が「教材主体で発問をつくる」(「図らずもごんを撃ってしまった兵十の気持ちを考えよう」というような)から、小集団活動やファシリテーション、ロールプレイなど、「様々な言語活動主体で場をつくる」(「図らずもごんを撃ってしまった兵十に手紙を書こう」というような)に移行しつつあるのはそういうことなのだろうと思います。教材世界に閉じられた授業づくりではなく、目に見えて実生活に開かれた授業づくりが目指されている、というわけです。

その意味で現在の教育界には、「発問」(従来からの広義の発問)においても、「教材世界に閉じられた発問」から「実生活に開かれた発問」へという抗いがたい志向性が確かにある。協同学習やファシリテーションといったワークショップ型を旨とする授業づくりの流行には、そうした背景があるように僕は感じています。

2.ワークショップと学びの最大公約数

ところが、大きな問題が発生しています。「実生活に開かれた発問」が主流になるなかで、若手教師が一斉授業型の発問づくりを通らぬままにワークショップ型ばかりを志向するものですから、教材を読み込むとか、子どもの思考過程を予測するとか、教材自体にゆさぶりの仕掛けを施すとか、そういう発想をもてなくなっているのです。実はこれでは、ワークショップ型授業もその機能性が浅くなってしまいます。結果、巷には、子どもたちが上っ面の交流ばかりする協同学習や、人間関係ばかりが醸成され教科学力が醸成されないファシリテーションが溢れています。

そして何より問題なのは、そうした授業に取り組んでいる教師自身がそのことに気がついていないという深刻な問題です。交流することによって子どもたちそれぞれのなかで子どもたちそれぞれなりの学びが成立すれば良い。確かにそれはその通りなのですが、教師のなかでは子どもたちの学びについての「最大公約数」が意識されていなければなりません。一斉授業の発問づくりは、教師に、無意識のうちに、この「学びの最大公約数」を把握する能力を鍛えていく営みとして機能していました。昨今のワークショップ型授業はその段階がすっほりと抜け落ちたままに行われている……僕にはそう見えるのです。

3.学びの機能度と教材開発

例えば、僕はワークショップ型授業おいて、同じテーマの詩歌を8~12編ほど並べて、「テーマについて最もよく描かれている順に並べ替えなさい」という順位づけの発問を多用します。僕のファシリテーション講座を受講した方なら、一度は体験していると思います。大抵の場合、授業でもセミナーでも、子どもたちや受講者に発見に次ぐ発見が起こり、それぞれの発見が相乗効果を生んでいきます。題材鑑賞の深まりと人間関係の醸成がスパイラルに「自動化」していきます。

しかし、受講者として体験しただけではわからないのですが、それらの詩歌には「発見が生まれるような仕掛け」が意図的に施されているのです。
例えば、僕の順位づけ発問の授業の代表的なものに俵万智の短歌を教材としたものがあります。『サラダ記念日』から恋愛短歌を10首教材化して、順位づけするというものです。

一つだけ例を挙げてみましょう。例えば、僕が教材化した俵万智の短歌のなかに次の歌があります。

左手で文字書く君の仕草青(ブルー) めがねをはずす仕草みどり

この歌を鑑賞するには、「青」と「みどり」という色彩イメージを自分なりに形づくることが必要になります。しかし、短歌鑑賞に慣れていない子どもたちや受講者には、そうした色彩イメージを整合し、自分なりの解釈を施すことが難しいことが多いでしょう。

しかし、僕が教材として提示した10首のなかには次の歌もあるのです。
明日会う約束をしてこんなにも静かに落ちる眠りのみどり

この歌を10首のなかにさりげなく紛れこませいおきます。前の仕草対比の色彩イメージをつくるうえで、この歌がヒントとして機能することを狙っているわけです。つまり、「みどりとは安らぎの色、平和の色なのではないか」という解釈が働くように、この歌が選ばれているわけですね。このように、10首なら10首がそれぞれに「解釈ヒントのネットワーク」を結ぶようにと教材開発されているわけです。

これが一斉授業であれば、さまざまな発問・指示・説明によって、教師が必要なときに必要な指導を施しながら、子どもたちや受講者の認識をまとめたり捌いたりゆさぶったりということが可能です。しかし、ワークショップ型授業にして子どもたちや受講者に場をあずけてしまうということは、こうした一斉授業であれば可能な教師の関わりを「教材開発」と「インストラクション」だけで機能させることを意味するのです。ワークショップ型の交流学習というのは、その意味で、一斉授業よりもはるかに難しく、教師の力量が必要となるのです。一斉授業をまともにできない教師にできるような代物ではありません。

4.学びのダイナミズムと個々のコンテンツ

人間関係の醸成、学びの共同体、信頼ベース、言語活動の活性化、さまざまな言い方がなされますが、協同学習やファシリテーションをあくまで授業において成立させようとする場合、子どもたち同士の人間関係や信頼感が潤沢であることや、言語活動が動的でダイナミックであることがそのまま学びを成立させるわけではありません。子どもたち一人ひとりが交流すべきコンテンツをもつ必要があるのです。そのコンテンツをもたせることにこそ教師は腐心する必要があります。

ワークショップ型の交流活動が学級目標を決めたりクラス会議を行ったりするといった特別活動で成立するのは、子どもたちが過去にさまざな「学級体験」をしていて、言うべきこと、言いたいことといったコンテンツを既にもっているからなのです。企業研修としてのファシリテーションが初めて招いた研修講師のもとで成立するのも同じ構造です。企業研修に参加する社員たちは、自らの会社がこうすればいい、ああすればいいという日常的な問題意識をもっているのです。ファシリテーターとしての研修講師の仕事はそれを表出させ、掛け合わせて、受講者の発見を促すことです。だから成立するのです。

しかし、授業は違います。もともともっているコンテンツを子どもたちが表出し、掛け合わせるだけでは学びが小さくなってしまうのです。子どもたちそれぞれに新たな武器をもたせたり、それらの武器を掛け合わせて更に強力な武器を開発したり、そうした営みがなければ学びのダイナミズムが生まれ得ないのです。

講師のいる教師を参加者としたワークショップ型研修において、さんざん交流活動をした後の受講者たちが、最後に講師の話を聞いて深く感心する、「自分たちはそこまで考えられなかった」と感じる、そんなワークショップ型研修のなんと多いことでしょうか。コンテンツを持たぬ者たちの交流が浅い結論しか生み出さないという何よりの証拠です。授業をこうした研修会の悪弊と同様の構図に貶めてはいけません。その悪弊から脱するヒントは、昔ながらの一斉授業の教材開発、発問づくり、つまりは「思考の喚起」にこそあるのです。

いいなと思ったら応援しよう!