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ジムについて語るときに僕の語ること

-プロローグ-

人間というのは大別するとだいたい二つのタイプにわかれる。つまりジムに行く人間とジムに行かない人間である。

べつに前者がちょっと右翼的で愛国の気持ちに富んでいて、後者がその逆で、という難しい話ではない。ただ単にジムに行くか行かないかという極めて単純な次元での話である。

これは僕がジムに行くことについて語るというだけの、ごくごく退屈な話だ。
僕がこの話を君に訊かせることが正しい選択であったかどうか、僕はいまもって確信ができない。たぶんそれは正しいとか正しくないとかいう基準では推しはかることのできない問題だったのだろう。

-1-

時計の針が17時を指したとき、僕は自分がジムに行くため、その日やるべき仕事が既に終わったことを確認した。
いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら17時にして、僕はその日のやるべき仕事が終わったと思い込むことを決心した、ということになるだろう。

そうしようと思えばジムの時間を少しずつ遠方にずらしていくことはできる。
しかしそんなことを続けていたら僕は恐らくジムにいくべき時間を見失ってしまうに違いない。妥当と思われる時間が18時になり19時になり、19時が21時になり、21時が23時になる。そんなように人生は一寸刻みに引き延ばされていく。
そしてある時、人は自分が24時を過ぎてデスクにいることに気付くのだ。24時というのはジムに行くには遅すぎる。

人はそのようにしてジムに行くための時間を失ってしまうのだ。
僕はそう思って、席を立ち、上司の引き留める怒声を後ろに、ジムに向かった。


-2-

「僕はここでトレーニングをしたいと思っている、そしてそれは今じゃなくちゃいけない。こんな恰好で来るのが無作法なことは知ってる。けど今じゃなくちゃいけないんだ」

スポーツウェアをデスクに忘れてしまった背広姿の僕は、スポーツジムの受付の女性にこう言い放った。デスクにはとある事情があって戻れないのだ。

「あるいはーー」

「いいのよ。ここはトレーニングをする場所なの」

僕の言葉を遮って、受付の女性はきっぱりと答えた。
予想と違う答えにあっけにとられた僕を見て、女性はもう一度、今度はとてもゆっくりと、でもはっきりとした口調で言った。

「ここは・トレーニングをする・場所なの」

「ここはトレーニングをする場所」

僕は手のひらに言葉をのせて重みをはかるみたいに、彼女の言ったことをそのまま繰り返す。彼女はかすかな微笑を口もとに浮かべた。
風のない日に静かに立ちのぼる小さな煙のような微笑みだった。

-3-

僕は背広姿のままスクワットラックの前にいた。

スクワットについて話す。
人間の一生はスクワットのすべてを理解するには短すぎるし、かといって知ったような顔でスクワットを語れるほど僕は傲慢な人間ではないつもりだ。(少なくともそうありたいと思っている)

「完璧なスクワットなどといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

僕が大学生のころ偶然知り合ったあるボディビルダーは僕に向かってそう言った。
僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧なスクワットなんて存在しない、と。

しかし、それでもやはりいざスクワットをはじめるという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。

「なぜ完璧なスクワットが一生できっこないと理解していながら、あなたはそれをするのでしょうか」

僕はそのボディビルダーにこう訊いたことがある。

「スクワットのない人生なんて、郵便を失った郵便局か、鉱夫を失った鉱山会社か、死体を失った葬儀場のようなものさ」

彼はこう返した。
僕はどう答えてよいかわからず黙って首をすくめた。

彼は続けてこう言った。

「つまるところスクワットはおれのレーゾン・デートゥル(存在理由)なんだな」

「スクワットがあなたのレーゾン・デートゥル」

彼の筋肉は室内灯の光を浴びてとても気持ちよく光っていて、まるで成長し過ぎた虫のように見えた。


-4-

とにかく僕はスクワットをはじめた。
びりびりとズボンがいやな音を立てたことに少し驚いてよろけてしまった部分以外は、概ね悪くないスクワットであった。

「ねぇ、あの人のスクワット、とてもきれいね」

遠くからそんな声がした。

「やれやれ」

僕は言った。
遠くから見れば、大抵のものはきれいに見える。
現に彼女は僕のスーツのズボンがぱっくりと裂けてストライプ柄のトランクスが顔を出していることに気付いていないようだった。
つまりはそういうことだ。

背広姿のままスクワットをするのは僕にとって悪くない経験だったように思う。
背広の襟に当たらないようにバーを担ぐと、それは示し合わせたかのようにちょうどロウバーの位置になっていたし、背広は背筋が曲がらないよう僕の姿勢を懸命にサポートしてくれた。
革靴のレンガのように固い靴底は、地面を踏みしめる感覚を教えてくれたし、ネクタイはあたかも元々その役割を与えられていたかのように、額にたまった汗を拭くのにピッタリだった。思えば僕はネクタイにどんな役割が与えられているのかをこれまでの人生で一度も学んでこなかった。


-5-

そうこうしている内に、僕はトレーニングを終えた。
僕がトレーニングを終えた理由は、その日のトレーニングヴォリュームが筋成長のシグナルをオンにできるレヴェルに達したとか、山本義徳先生が提唱する『101理論』が実践できたとか、そんな崇高なものではなかった。(山本先生が崇高かどうかはまた別の話である)

つまり僕は僕自身のあくまで個人的な理由によってトレーニングを終わらざるを得ない状況に陥ったということになる。


-6-

話は少し前に遡る。

聞き慣れた声がした。
最初は気のせいかと思っていたのだが、それは徐々に確信へと変わっていき、僕は声のするほうに目を向けないわけにはいかなくなった。

そこには職場にいるはずの上司が、先程の受付の女性と話している姿があった。
どうやら上司は新作のトレーニングウェア(LYFTというブランドらしい)が自分に似合っているかどうかを、彼女にしつこく確認してるらしかった。

「ここはトレーニングをする場所なの」

その一言一句がさっき僕に向けられた言葉と完全に一致しているのに、その言葉が持つ意味は僕に向けられたそれとはまるで正反対であるらしいことが僕にはわかった。

「ここは・トレーニングをする・場所なの」

期待していた答えが返ってこず、あっけにとられた上司に追い打ちをかけるように、女性はもう一度言い放った。

しまった。と思った。あまりにコミカルな光景を目の当たりにし一種の放心状態にあった僕は、上司が自慢話をあきらめてウェイトエリアに向かって来たことに気付くのに遅れた。つまり僕は逃げるタイミングを失ってしまったのだ。
しかも僕がいるのはフリーウェイトエリアだ。補足だが、ジムに来た人間が最初に脚を運ぶのはフリーウェイトエリアである、というのは半ばトレーニーの暗黙の了解となっている。
しかし予想に反して上司はフリーウェイトエリアには目もくれず、正面が鏡張りの小さなダンベルが置いてあるスペースに向かった。横にはインクラインベンチを用意しているようだった。


-7-

九死に一生を得た僕は更衣室に向かい、手を洗うついでに鏡に顔を写してみた。鏡に写った僕の姿はそれはもうひどい有り様だった。僕は背広でウェイトトレーニングをした代償について真剣に考えなければならなかった。
ズボンの股の部分は大きく引き裂かれて、首元のネクタイは酷いニオイを放っている。

ふと近くのハンガーラックを見ると、まるで洋服屋に並んで着られるのを待ちわびているかのような、仕立ての良いスーツが掛かってあった。
このスーツには見覚えがあった。

「既製品じゃ肩と腕が入らなくてね、全部オーダーメイドで作ってあるんだ」

得意げに部下の女性に向かって話す上司の顔が脳裏に浮かんだ。

「やれやれ」

僕は溜息をついてネクタイをゆるめ、とある決心をした。


-8-

ジャケットは示し合わせたかのようにピッタリだった。ズボンを履くのには少しばかり苦労が必要だったが、ミシミシと音をたてながらなんとか僕の脚をその中に収めてくれた。

「やれやれ」

僕は、大きな上半身に対して鶏ガラのように細い脚を持つ上司の姿を頭に浮かべ、また小さく溜息をついた。


-9-

仕立ての良いスーツに包まれた僕はジムを後にしようとした。
ふとウェイトエリアを見ると、酷いフォームでインクラインサイドレイズ(のようなもの)をしている上司の姿が目に入った。湿った新聞紙みたいな顔つきで、小さなダンベルを妙な軌道で上下させている。

ふと後ろから女性の声がした。

「なかなか素敵なスクワットだったわ」

受付にいたあの女性だった。
僕は即座に答えた

「遠くから見れば、大抵のものはきれいに見える」

「そうかもしれない」

と彼女は口にして、意味深に上司の方に目線を送った。
僕の上司は相変わらず湿った新聞紙のような顔つきで、ヘンテコな動きを繰り返している。

「この言葉のポイントは’’大抵’’というところにある」

僕は言った。

「私もそう思う」

彼女は肯いた。


-10-

ジムを後にした僕は駅までの道を行く途中、股が裂けたダボダボのズボンを履いて不格好に歩く上司の姿を想像していた。
窮屈なズボンのせいで駅に着くまでにいつもの二倍の時間がかかったが、陽はまだぎりぎりのところで沈んでいなかった。

まばらにしか人が乗っていない普通電車に乗り込んで、心地よい筋肉の痛みを感じながら僕はゆっくりと着席した。またびりびりとズボンが嫌な音を立てたが、一日に二度も起こる出来事に驚くほど僕は繊細な人間ではなかった。

僕は静かに目を閉じて、夕暮れが僕を然るべき場所に運んでくれるのを待った。

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