2冊の聖書と日本語の自由
文筆家で詩人の真帆沁さんのnoteを愛読している。
クリスチャンとして内面を真っすぐな文章で綴られていて、同じくらいの頻度と熱意で美味しそうな食事を紹介している。
よく読まれているこの投稿のように、心が洗われて食欲がわく一粒で二度おいしい素敵なnoteだ。
「それにひきかえ自分のnoteは……ニントモかんともニンニン」と苦笑しつつ、読んで魂のプチ洗濯に活用している。
さて、私はまったく信仰心のない人間なのだが、実は我が家には聖書が2冊ある。
今日5月31日はペンテコステでもあり、「我が家に聖書がやってきた」いきさつと、クリスチャンになりかけた自分でも信じられない過去などをツラツラと書いてみたい。
ペンテコステについてはこちらをどうぞ。
遊び目当ての教会通い
1冊目の聖書との出会いは小2か小3のころだった。
当時、私は自宅から徒歩1~2分の教会の「日曜学校」に通っていた。
キリスト教に興味があったわけではなく、近所の仲良しさん2人が楽しそうに通っていた影響だった。その2人は母親が信者だったと思う。
日曜学校では、子ども数人のグループに大人の信者が一人ついて、聖書の一節をかみ砕いて解説してくれた。小さい子向けには紙芝居もあった。
これが、とても面白かった。イエス様が繰り出す奇跡に「すげー」と素朴に興奮し、イエス様が十字架にかけられると「12人も弟子がいて何やってんだよ~」と素朴に憤った。
この時の名残か、私はイエス・キリストを「イエス様」と呼ぶ。発音は「ぃえっさま」みたいな感じ。
馬鹿なガキはありがたいお話は学校の道徳の授業のようにスルー気味で、物語として聖書を面白がっていた。
お祈りや讃美歌の合唱も非日常的で楽しかった。
「主の祈り」や讃美歌は三つ子の魂なんとやらで覚えてしまい、今でも「♪ザアカイは、ちびすけだ とっても背がひくい~」とか「♪くるぶしでもなーく、膝まででもなーい」といった調子で鼻歌を口ずさむ。
一番の楽しみは夏休みの「キャンプ」。どこに行くわけでもなく、子どもたちが教会で1週間ほど過ごすお泊り会的なイベントだった。
聖書のお勉強より、ゲームや肝試し、キャンプファイヤーなどのレクリエーションがお目当てだった。大人と一緒に礼拝堂でやる真剣勝負のハンカチ落としが異常に楽しかった。
そんな調子で通っていたら、仲良しの「かっちゃん」のお母さんが「おうちでも読めるように」と聖書をくれた。
これがマイ・ファースト・バイブルだった。
まともな本棚もない家にやってきた私の最初の「蔵書」だった。
もとは「かっちゃん」のお姉さんが使っていたかなり年季が入ったものだった。今でも手元にある。
(ハンディ。なかなかいい味でてます)
1955年改訳版で1973年に刷られたもののようだ。高井さんとほぼ同い年。
もらったときには新約の主なところ、旧約も「箴言」などの大部分は線が引いてあった。巻末には前の持ち主の受洗日も記してある。
大事な一冊をわけてくださったのだ。
これは今はほとんど開くことはない。読むのは「2冊目」の方だ。
数年続いた教会通いはある出来事を機にピタリとやめてしまった。
確か小4になったころ、大人の信者の「夜の集会」に参加した。
それは、当たり前だが、宗教的な儀式だった。
牧師様が熱を帯びた口調で神の救いを訴え、大人の信者たちが進み出て罪を悔い改める。叫ぶように祈る人や、泣き出す人もいた。
そんな様子の大人を初めて見た。
「……怖い」
それが「縁なき衆生」の正直な感想だった。
不勉強なので詳細は割愛するが、やや急進的な宗派の教会だったのだろうと思う。
これを機に教会に足を運ぶことはなくなった。
魅了された『イエスの生涯』
その後、ふいに、縁が切れたはずのキリスト教と復縁の道が開けた。
発端は三浦綾子の名作『氷点』。高学年の時に図書館で借りて読んだ。
周知のとおり『氷点』は原罪という概念を広く日本に知らしめた作品だ。ここから「クリスチャン作家つながり」で遠藤周作の『イエスの生涯』を読んだ。
これが完全にツボにきた。小6から中2のころ、何度か読み返した。
新潮社の上記サイトから引用する。
英雄的でもなく、美しくもなく、人々の誤解と嘲りのなかで死んでいったイエス。裏切られ、見棄てられ、犬の死よりもさらにみじめに斃れたイエス。彼はなぜ十字架の上で殺されなければならなかったのか?――幼くしてカトリックの洗礼を受け、神なき国の信徒として長年苦しんできた著者が、過去に書かれたあらゆる「イエス伝」をふまえて甦らせた、イエスの〈生〉の真実。
『イエスの生涯』は、教会で習ったことを一体感のある伝記、イエス様や弟子たちの人間的な側面まで踏み込んだ物語として学びなおす読書になった。
「そういうことだったのか!」と膝を打ちまくった。
続編の『キリストの誕生』も読み、こちらも感銘を受けた。
素直な心をギリギリ残していた高井少年は「キリスト教、いいかも」とかぶれ、また教会に足を運んでみようかなと考えた。
同じころにあれこれ悪さをして「地上15階のチキンラン」なんて馬鹿もやらかしていたのだから支離滅裂だ。
ま、思春期のガキなんてそんなもんだろう。
(「読むジェットコースター」。未読でしたら)
この第2次ブームはあっさりと消えた。
きっかけはまた「宗教的体験」だった。詳細は割愛するが、仲良くなった若きモルモン教の宣教師と話すうち、いろいろあって「んー、やめとこ」となった。
この2度の機会に違った縁があったら、自分はクリスチャンになっていたかもしれない。
それは想像でしかない。性根が信仰心からほど遠い人間なので、どう転んでもそうはなっていない気もする。
それでも「もし」と考えると相当人生違ったかもしれず、ちょっと面白い。
文語訳聖書を探して
信仰の熱は冷めたが、時を同じくして、別ルートで聖書への関心が高まった。
開高健にハマって文語訳の聖書が読みたくなったのだ。
ファンならご存じのように、開高健は旅に出るときにも『ガリバー旅行記』と文語訳の旧約聖書を持ち歩いていた。
文章だけみれば、文語訳は簡潔で美しく、口語訳は少々まわりくどい。
開高健も旧約聖書を愛読する理由は、宗教的なものではなく、人間ドラマの原型として、あるいは「欧文脈、和文脈、漢文脈の成果」に魅せられていたと語っていた。
なじみのない方には「何がなにやら」だろう。参考のため「山上の垂訓」を引用する。「そんなの知ってる」方は下のボックスはパスして下さい。
マタイによる福音書 第6章
(口語訳)
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
--中略--
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(文語訳)
空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず。然るに汝の天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。
--中略--
この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。
若き高井さんは「自分も文語訳聖書を座右の書に加えたい」と夢想した。
ところが、ないのである。
名古屋の大きな書店をあちこち探したが、見つからなかった。
今、軽くネットで検索するといくらでも出てくる。便利な世の中だ。
でも、当時はかなり頑張ったけど結局、学生時代には発見できなかった。
就職してからは忙しく、「文語訳聖書を探せ」作戦は頭から抜け落ちていた。
だが、4年の大阪勤務を終えて東京に戻り、21世紀に入って間もないころ、いつものブックハンティングで立ち寄った日本橋の丸善で、「𦾔新約聖書 文語訳」の背表紙が目に飛び込んできた。
(箱入り旧字総ルビ、税別4800円。)
一も二もなく飛びついた。
著作権の表記によると初版はなんと1887年。1917年に改訂され、私の持っているのは1982年の再改訂版を2001年に刷ったもののようだ。
多少の違いはあれど、これは開高健が「無人島に一冊だけ持って行けるなら」という問いに挙げたのとほぼ同じものだろう。
ようやく夢が叶い、かなり嬉しかったのを覚えている。
日本語の「解毒剤」
入手して20年ほどになるが、この文語訳、さすがに通読はしていない。
創世記、出エジプト記あたりまでと民数記のさわり、福音書の有名な下りをパラパラと拾い読みするくらいだ。
引用には文語訳の方がかっこいいので便利だ。
この投稿でも参照した。パロディ調なのでやや不謹慎ですが。
この文語訳聖書は、キリスト教の理解を深めるより、日本語について感度を上げるのに一役買ってくれている。
敬愛する山本夏彦翁は渾身の一書『完本 文語文』で、一章を割いて口語訳と文語訳の聖書の違いを指摘し、こう嘆いた。
なぜ口語訳なんかにしたのだろう。分らない字句があってリズムさえあればいいのである。暗唱すること百遍、意はおのずから通じるのである。
(『完本 文語文』山本夏彦 文春文庫)
言わんとするところは文語訳聖書を読むとよくわかる。
(全編、こんな具合。実は読みやすい)
使える漢字や画一的な「送り仮名」に縛られた、戦後の国語改革のいびつな産物の現代日本語と比べ、そこにはリズムと自由と「美」がある。
このあたりの事情は、高島俊男の『漢字と日本人』に詳しい。
本業が記者で、ペンネームの「高井浩章」名義でネットメディアなどに寄稿する際にも、標準的なコードは守っている。校閲さんの仕事をむやみに増やすのは本意ではない。
それでも、「畢竟」と書いて「つまり」と読ませ、「秘密」と書いて「ひめごと」と読ませるといった自由には憧れる。
そこまで行かなくても、「どこまで送り仮名をつけるか」や「文脈によって『はかる』にあてる漢字はどれが正解か」といった底の浅い議論にはうんざりする。
「歩み」でも「歩ゆみ」でも、意が通じればどちらでもいい。
「図る」か「計る」か「測る」かなんて、全部「はかる」でいい。和語に漢字をあてただけなのだから。
手元の文語訳聖書の創世記を引いてみよう。
元始に神天地を創造給へり
(『𦾔新約聖書 文語訳』創世記第1章1節、日本聖書協会)
これで「はじめにかみてんちをつくりたまへり」と読む。
いや、読ませる。そこに書き手の意志と見識がある。
こんな日本語に触れると、硬直的な今の書き言葉からひととき解き放たれる気分を味わえる。
聖書、読んでみませんか
話が日本語論に大きくそれた。軌道修正します。
やや不純な動機からはじまった日曜学校から文語訳聖書まで、私は平均的な日本人よりは聖書に親しんできた方だろうと思う。
聖書以外にも、キリスト教関連の書籍には、主に歴史的な視点から関心を持ってきた。たとえば『ユダの福音書』や、イエス様の墓所(かもしれない)遺跡の発見にはかなり興奮した。
(ともにノンフィクションとして上質な読み物です)
聖書は、純粋な読書の対象としてみても、面白い。
メジャーな部分だけでも読んでおくと、欧米の文学や映画、社会情勢などの理解を助けてくれる。
けち臭い言い方だが、読んで損はない。特に若い方は。
文語訳にチャレンジしろとは言わない。
口語訳で、福音書や旧約の創世記、出エジプト記あたりまで、時間があるときに読んでみてはどうだろうか。
費用対効果からしたら、ほぼタダみたいなものだ。
私自身は縁がなかったが、クリスチャンへの道につながるかもしれない。
まずはお試し感覚で、改めて真帆沁さんのnoteをオススメします。
またいっぱい書いちゃった……。
ちなみにタイトル画像はエジンバラのホリールード寺院(Horryrood Abbey)で撮った1枚。青空に浮かぶ St. Andrew’s Cross。国旗にも採用されている守護聖人のシンボルです。
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