離れ業の人間賛歌「自虐の詩」
独選「大人の必読マンガ」案内(9)
業田良家『自虐の詩』
お気に入りの小説やマンガが映画化されると聞くと、「やめておけばいいのに……」と思うことは少なくない。原作に対する愛着が深いほど、「汚される」という懸念が強まるからだ。
これまで、「映画化なんてムチャはよせ」と思った筆頭格は、小説ではアゴタ・クリストフの『悪童日記』、マンガでは業田良家(ごうだよしいえ)の『自虐の詩』だ。
前者は劇場に足を運んで「まあ、こんなもんだよな」と達観し、「無かったこと」として処理したが、後者はどうにも見る勇気が起きず、未見のままだ。
「もうダメ」ってなる
業田の代表作『自虐の詩』は、「泣ける4コマストーリー漫画」の代名詞的存在だ。
手元の竹書房の文庫版上巻に収められたインタビューで、漫画家・内田春菊は何度読んでもラストに差し掛かると「『もうだめ』ってなっちゃって最後まで泣きっぱなし」と語っている。
白状すると、私も再読するたびに「熊本さん」が出てくるあたりから「泣き笑いモード」になってしまう。しかも、これは内田もインタビューで指摘していることなのだが、年齢を重ねるごとに「泣きポイント」が増えているのだ。
(本作品の最強キャラ、熊本さん。控えめに言って最高です)
なぜこのマンガには、いい歳をした大人の心を強く揺さぶる力があるのだろう。
未読の方のために、簡潔に作品の概要をまとめておこう。
主人公は内縁の夫婦である森田幸江と葉山イサオの2人。イサオは無職で、いわゆる「ヒモ」のような生活を送るどうしようもない男で、定食屋「あさひ屋」に勤める幸江のわずかな稼ぎを酒やギャンブルで浪費する。そんなイサオに、いかにも不幸と貧乏を呼び寄せそうな容姿の薄幸の女・幸江は心底惚れている。
この2人を軸に、物音が筒抜けの壁の薄い安アパートの「隣のおばちゃん」や、「あさひ屋」のマスター、イサオの子分のタロー、幸江の父・家康(すごいネーミングだ……)など一癖あるキャラクターたちが絡んで、物語は進む。
綱渡りのような離れ業
「物語」と言っても、本作は4コマ漫画なのでストーリー漫画のように、話の筋が綺麗に流れるわけではない。『週刊宝石』に掲載された時点では、『自虐の詩』は「幸江・イサオ」以外の物語もとりまぜた連載だったようだ。
作品の前半はひたすら「不幸を引き寄せる幸江」をネタにしたギャグが続く。オチの多くは、『自虐の詩』名物のちゃぶ台返しだ。イサオの悪癖のちゃぶ台返しは、徐々に他のキャラクターもぶちかます定番ネタになっていく。
(見開きで4回ものちゃぶ台返し。最初はこればかりです)
「ちゃぶ台返しモノ」のあたりは、ネタは練られてはいるものの、はっきり言ってしょうもないギャグ漫画でしかない。だが、そのしょうもない4コマ漫画が後半、ドラマチックな「泣ける漫画」に豹変する。
幸江の悲惨な子供時代の回想シーンが増えるにつれて作品のストーリー性が高まり、中学の同級生の「熊本さん」の登場、イサオとの出会いのあたりから読者はグイグイと引き込まれ、ネタバレになるので詳細は書けないのだが、最後は内田が言うところの「もうだめ」という境地に持っていかれる。
(二重の枠線が回想シーン。この回もちゃんとオチがあります)
ジェットコースターにたとえれば、前半のくだらなさでカタカタと位置エネルギーを稼ぎ、そこから一挙に急カーブあり、ループありの波乱の展開が待っている。
さらにこの作品が凄いのは、この怒涛の後半部分でも、ただの「お涙頂戴」には走らず、作者・業田が「ギャク4コマ」の常道をはみ出さないで、各話にきっちりオチをつけて笑いを取ってくることだ。笑いと涙を行き来するバランス感覚は、まさに綱渡りのような離れ業としか言いようがない。
小気味よいリズム感
未見なのに評価を下すのはフェアではないが、私が「映画では再現不可能だろう」と感じるのは、この離れ業がマンガという表現手段、それも4コマギャグ漫画という縛りのきついジャンルだからこそ可能なものだと考えるからだ。
「ストーリー性が強い4コマ漫画」には、ちょっと思いつくだけで『ぼのぼの』(いがらしみきお)や『あずまんが大王』(あずまきよひこ)など、マンガ史に名を残すであろう作品があり、特異な手法ではない。むしろ、いわゆる「日常系」などを含めて定着したジャンルになっていると言っていいだろう。
これは、4コマ漫画の特性がある種のストーリー展開において有効なツールになりうるからだろう。4コマ漫画は、通常のマンガの演出の肝である見開きや「コマ割り」が使えないという制約を背負っている半面、「4コマで一区切り」という縛りが作品の進行と読者の読むペースに自然なリズムをもたらす強みを持つ。
『自虐の詩』でも、前半のギャグ主体の部分はもちろんのこと、後半部分でもこの小気味好いリズム感は大きな武器になっている。ストーリー漫画なら1話分に相当するエピソードが、4コマあるいは8コマ単位の怒涛のリズムで畳みかけられる。
「均等なコマ割り」という制約を逆手にとった名場面もある。「熊本さんのロングショット」と言えば、ピンとくる方がいるかもしれないあるシーンは、見開きや大ゴマではないからこそ、胸に迫る描写になっている。私は毎回、ここで「もうだめ」となってしまう。
なお、正確に言えば、本作には半ページの大ゴマを含む「5コマ漫画」が数本置きに挿入される。前半はこの「大ゴマ」に特に存在感はない。だが、クライマックスに入ってからの数枚は、この「大ゴマ」の1枚絵が素晴らしい効果を上げている。
再読するたび出る「味」
そして、『自虐の詩』を名作たらしめているのは、こうした「4コマ漫画マンガならでは」の巧みな作劇術を用いながらも、ストーリーテリングではテクニックに走らず、真正面から「人間」を描いている姿勢だ。
未読の方々のためにこれ以上、余計なことは書きたくない。「まずは黙って読んでくれ」としか言えない。あえて野暮な解説をするなら、優しさと残酷さ、勤勉と怠惰、決心と迷いなどなど相反するものが同居する、どうしようもない人間の本性と、絶望と救い、幸と不幸が綾なす人生のタペストリーが、下手な小説など及びもつかない深みをもって語られる。いや、やはり、こんな言葉は野暮だ。とにかく読んでほしい。
蛇足ながら、この作品の連載期間が1985年から1990年までで、『BSマンガ夜話』に取り上げられ、映画化につながるブームのきっかけとなったのが2004年だった、という事実が個人的には非常に興味深い。日本がバブルの絶頂に駆け上がる時代に貧困をテーマにした作品が描かれ、「失われた20年」のボトムに近い時期に「再発見」されたわけだ。このタイムラグは、作者・業田の持つ普遍性と先見性、日本社会の価値観の変遷を映し出しているように思える。
竹書房の文庫版なら上下巻でわずか1200円ちょい、マンガを読みなれた人なら1時間もあれば読み通せてしまうコンパクトな作品だ。しかも、歳を重ねて再読するたび「味」が出る。手元に置いておいて損はないと自信をもって保証する。
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本記事は2月15日に新潮社のニュースサイト「Foresight(フォーサイト)」に掲載されたコラム、独選「大人の必読マンガ」の転載です。編集部のご厚意により、公開から一定期間後にこちらにもアップしています。本文、画像など一部を追加・加筆しています。
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