Brexit迷走の謎を知る最良の教材
独選「大人の必読マンガ」案内(11)
浦沢直樹 ・勝鹿北星・長崎尚志『MASTERキートン』
英国・アイルランドでは、頭文字を大文字で表記する「The Troubles」という特別な言い回しがある。
日本語として定着している「トラブル」という一般名詞のイメージとは違い、この言葉には血生臭い歴史が染みついている。テロや弾圧で3000人以上の死者を出した北アイルランド問題を指す婉曲表現だからだ。
当初は2019年3月末にセットされていたブレグジット(英国のEU=欧州連合=の離脱)は、ギリギリで先送りとなり、なお英政界の混乱で先が読めないカオスが続く。
この迷走の最大の要因はEU加盟国であるアイルランドと英領である北アイルランドの間の国境、いわゆる「アイリッシュ・ボーダー」問題だ。なぜ、わずか500キロほどのこの国境が解決不能な難題なのか、日本人には理解に苦しむところ。このTroublesの根深さを肌感覚で知る格好の教材が『MASTERキートン』(小学館)だ。
「ギャング同士のケンカ」
日・英ハーフの英国人、平賀=Keaton(キートン)・太一を主人公に据えた本作は、1988年から1994年までビッグコミックオリジナルに連載された浦沢直樹の代表作の1つ。キートンは考古学者、英特殊空挺部隊SASの元隊員、探偵(保険会社ロイズの調査員=オプ)という3つの顔を持つ。
このユニークな経歴のキートンが様々な事件に巻き込まれ、冷戦終結前後の複雑な国際情勢を反映したスリリングなストーリーや、依頼人やキートンの家族・友人のヒューマンドラマが展開される。
世界各国を舞台にした作品の構えの大きさはさいとう・たかをの『ゴルゴ13』(小学館)に通じるものがある。主人公が軍事・サバイバルや、歴史、国際情勢について広範な知識をもつ「プロ中のプロ」なのも共通項だ。
だが、冷徹なゴルゴとは対照的なキートンの柔らかな人柄が魅力となり、読み味は全く違う作品になっている。私は断然「キートン派」で、学生時代から何度も再読している。
『MASTERキートン』では、たとえば「穏やかな死」の回でTroublesが題材となっている。アイルランド統一を目指す武闘派組織IRA(アイルランド共和軍)の一員として爆弾製造を受け持ってきた男の「変節」と、キートンの数奇な巡り合わせが印象深いエピソードだ。
さらにこのテーマに真正面から踏み込んだのが、「偽りの三色旗」と「偽りのユニオンジャック」の連作。三色旗はアイルランドの国旗を指す。
ストーリーの軸となるのは、作中で「ギャング同士のケンカ」と表現されるIRAとSASの報復合戦で、その根っこにはIRAと英国の泥沼の闘争の発火点となった1960年代の英軍派遣がある。数百年におよぶ英国の搾取・弾圧に苦しんだアイルランドの苦難の歴史や、北アイルランドの成立後に続いた少数派のカトリック教徒への差別にも言及し、連載当時にはリアルタイムの難題、まさにTroublesだったことが生々しく迫ってくる。
2014年に単行本が発売された待望の新作『MASTERキートン Reマスター』(浦沢直樹・長崎尚志、小学館)に収められた「ハバククの聖夜」でもTroublesが取り上げられている。北アイルランド問題は1998年のベルファスト合意(Good Friday agreement)以降、小康状態にあるが、同編に登場する元ロンドン警視庁警部の老人が漏らす一言が、Troublesの根深さを象徴する。
曰く、「休戦中だ。平和は戻っちゃいない」
深刻な問題はTroublesの再燃
実際、Troubles は、ブレグジットの行方如何で「休戦」が壊れ、テロが再開しかねない危うさを抱える。日本ではあまり大きく報じられなかったが、今年1月、北アイルランド第2の都市ロンドンデリーで自動車爆弾とみられるテロがあった。幸い犠牲者はなかったが、通行人がいれば確実に死者が出ていたであろう規模の爆発だった。
同じEU加盟国として国境が完全開放されている現状は、私自身、2016年春から2年のロンドン駐在の間にダブリンからベルファストまで鉄路で旅した際に実感した。あの、本当に何の境もない、日々何万人もが行き来する名ばかりの境界線に、厳格な国境(ハードボーダー)が復活するとは、とても想像できない。
だからこそ、仮にそれが現実になれば、IRAの残党を刺激して「平和の均衡」が崩れる恐れは大きい。一方、開いた国境を維持するために北アイルランドをイギリス本島から切り離すようなスキームは、現政権に閣外協力する地域政党DUP(民主統一党)など英国の一体性を重視する勢力が絶対に飲まないだろう。
いわゆる「合意無き離脱」のリスクについては、ヒト・モノ・カネの移動が滞ることによる経済的な打撃に目が向きやすい。日本や企業への直接の影響としては、それは間違いではない。だが、英国とアイルランドにとって最も深刻な問題はTroublesの再燃なのだ。最悪期にはIRAがロンドン中心街でも次々とテロを仕掛け、王室メンバーにも犠牲者が出ていることを忘れてはならない。
『MASTERキートン』は、このTroublesを血肉の通うヒューマンストーリーとして描き切っている稀有なマンガと言えるだろう。そこには、歴史書や解説記事では伝えきれない、物語のもつ共感を呼び覚ます力がある。
「あの時の海の色」
さて、ここまではホットな話題に引き付けて語ってきたが、Troublesという題材は『MASTERキートン』の魅力のほんの一部でしかない。
他の国際情勢に材をとったエピソード群も深みや切れ味十分で、考古学者としての夢を追い続けるキートンの苦闘や、魅力的な脇役たちの繰り広げる歯切れの良い短編集のような物語にも、時折再読したくなる魅力がある。ウンチク好きの私には、挿入される豊富な史実やトリビアも楽しみの1つだ。
そして、私にとって本作の最大の美点は、冷徹な国際政治や気まぐれな歴史に振り回される人々の悲哀をテーマとする回が少なくないのに、本作全体には人間賛歌という言葉がぴったりな温かさが貫かれていることだ。必ずしもハッピーエンドと言えないエピソードでも、読後感はどこか清々しい。
タイトルの「MASTER」は、考古学修士課程修了というキートンの学歴だけでなく、SASのサバイバル教官としてのキャリア、フェンシングの「達人」など多面的なキートンの来歴を包含したダブルミーニング、トリプルミーニングとなっている。
最後に、本作で私が一番気に入っている「MASTER」の側面について触れたい。
「瑪瑙(めのう)色の時間」は、少年時代のキートンが休暇を過ごした母親の故郷・コーンウォールでの思い出話を軸に話が進む。しがないバス運転手のワトキンズは、地元の少年たちから浮いている「別荘組」のキートン少年の友人となり、こう語る。
「坊やはきっと人生の達人(マスター・オブ・ライフ)になれるぞ。俺の人生のテーマなんだ」
その後、小さなトラブルがあり、ワトキンズはキートンを慰めるため、美しい朝の海が見える秘密の場所に連れていく。ワトキンズは言う。
「人生の達人はどんな時も自分らしく生き 自分色の人生を持つ」
時は現代に戻り、瑪瑙色に染まる海を見る時を共有した少年時代の思い出を自分の娘に語ったキートンは、こう話す。
「お父さん まだ人生の達人どころか、自分の人生もわからない。でも、あの時の海の色は忘れない」
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本記事は4月3日に新潮社のニュースサイト「Foresight(フォーサイト)」に掲載されたコラム、独選「大人の必読マンガ」の転載です。編集部のご厚意により、公開から一定期間後にこちらにもアップしています。本文、画像など一部を追加・加筆しています。
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