
「この感じ」を「例える→言葉へ→例える」〜中之条ビエンナーレを終えて〜
自分が作りたかった「この感じ」とは何か?
中之条ビエンナーレ2023 出展作品「THIS FEELING」
群馬県で開催されている中之条ビエンナーレ2023に美術作家として出展していました。
展示会場は、学校としては廃校になっていますが、期間限定でCAFEが開店したりしているレトロな旧第三小学校。

木造校舎の1階、一番奥の部屋に作品を展示させてもらいました。
作品タイトル「THIS FEELING」
自分が「この感じ」と思える空間を創出するといった思いをこめての制作でした。

この感じって、どんな感じなのか?
大まかな方向性は定めつつも、その時に応じて作り上げていく制作方法なので、「この感じ」を言語化していなかったりするのです。
作品の説明には「この感じ」を様々なものや現象の羅列で例えて説明しようしました。
以下、中之条ビエンナーレ2023ガイドブックに書いた文章です。
This Feeling
ナトリウム灯に照らされた夜の高速
ふと空が開けた山道に現れたシャガの花
今でも耳に残る四万川の音
美しさと怪奇さとの均衡あるいは聴覚フルネス
これまで感じた「そう、この感じ」の記憶を辿りながら、その立ち上げを試みたい。
①ナトリウム灯に照らされた夜の高速
僕の好きな作家に「ハンス・オプ・デ・ビーク」という人がいます。
この人の作品を、十和田美術館で初めてみました。
遠近法を使って限りなく本物の高速道路に見せようとしている、フェイクが現実に近づいている状況を作り出している作品「ロケーション5」です。
友人の山くんは「現実が融解している」とこの作品を表現していました。
夜の街灯に照らされた街角や、夜の高速道路が現実の世界なのかわからなくなるような不思議な感覚が僕にはありました。
この作品が僕にヒットしたのも、そんな感覚に通じたからかもしれません。
この作品と出会ってから尚更、夜のライトに照らされた風景に見入るようになりました。
ナトリウム灯に照らされた夜の高速はそうした「この感じ」ですね☆
②ふと空が開けた山道に現れたシャガの花
これは、滋賀県長浜市の山奥にある菅山寺(かんざんじ)に行った時のことです。
菅山寺に行くには、結構な距離の山道を進む必要があります。
山道を進むと木々が茂り薄暗い状況になっていきます。
そして、木々の茂りがなくなり、空が見えて明るくなった場所には、野草シャガの群生が花を咲かせていました。
「ふと空が開けた山道に現れたシャガの花」は、その時の「この感じ」です。

上の写真の場所に遭遇した時、「極楽浄土に来たな。いや、黄泉の国か、、」という感覚でした。
現実の世界のはずなのに、何かずれた世界に来た。
これも「現実が融解している」的なものだなと思います。
融解というか、違う世界にワープしたというか、違う位相に、、、
また言葉の羅列を試み始めましたね笑
それから、文章を書いてみて気づいたのですが「遭遇する」という感覚も自分にとっては大切かもしれません。「相対(あいたい)する」とも。。
この時の「この感じ」はシャガの群生に遭遇するまでの道のりも大きな影響を与えています。
・薄暗い山道をずっと歩いてきたこと
・その過程を経て、視界が明るくなった時にシャガと出会ったこと
・寺と御神木が目的地であったこと
「現実が融解している」という言葉だけで説明できると思わない方がいいですね☆
「遭遇する」は、旅好きの僕にはとっても大事な要素だと思います。
アートが好きなのは、この「遭遇」するという感じもあるのだと思います。
展示会場にて作品に遭遇する、街を歩いているとストリートアートに遭遇する。
ちなみに、このお寺に来たのは、「山門のケヤキ」をみたかったからです。
山奥にあり、寺には常に人がいない状態みたいですが、保存会の方々の努力で維持されているみたいです。

そんな誰もいないということもあってか、単純に美しいということだけでもなく、少しの怖さに似た感覚も同居していました。
極楽浄土だけでもない、黄泉の国の要素もあるという感じでしょうか。
③美しさと怪奇さの均衡
「極楽浄土だけでもない、黄泉の国の要素」といった感覚を作品の説明文では
「美しさと怪奇さの均衡」と表現しました。
この「美しさと怪奇さの均衡」の感覚を普段は「崇高」という表現をしてきた気がします。
宗教施設の空間が僕はとても好きです。
お寺の境内、教会、モスクなど。
それらは「崇高」さを感じる空間でした。

その宗教施設から感じる崇高さには「畏怖の念」もあります。
その「畏怖の念」と「崇高さ」をあわせ持つものとして、「美しさと怪奇さ」と表現したのかもしれません。
そうしたものを「気配」という言葉でも説明してきました。
アート作品制作の主なモチーフは、その場に立ち現れてほしい「気配」。
自分にとって崇高な「気配」の立ち上げを目指して制作を行っています。
ここでは「気配」ではなく「怪奇」という言葉に注目して、
その怪奇さが作品を作る際に重要な要素なのではということで進めます。
心地よさと、気味の悪さが同居する。
中之条ビエンナーレ2023の作品について、
インスタで投稿してくれた方の言葉を引用します。
気味が悪い程鮮烈な色彩に満たされた空間なのに。漂う空気はどこか静謐で。救いようのない悪夢の中に佇んでいるようでもあって。心地いいひととき。
作品に対してのコメントは、自分ではできないような言語化をしてくれています。
その方が作品から感じたもの、その方の中から出てきた言葉はとっても尊いです。
ポエムですね、まさにポエム。
他にも、色々とコメントをしていただきました。
深夜感、高揚感と背徳感。
前略
どことなく深夜感があるこの作品は、普段は知らない事を知っていく、少しの高揚感と背徳感。
続いての方のコメント、「懐かしさ。」これは、作品が単色だからか、学校だからか、モノトーン的な懐かしさ。それとも、、
前略
妖しいような懐かしいような…
radial_yellow_orbit より
人間の感情って複雑ですね☆
美しさをどこに見るのか、どのような美しさなのか、ただ単に美しいだけか、、
そんな混沌とした感情ってものを表現したいのかもしれません。
マゼンタピンクからセピアへ 作品の季節は巡る
諸事情もあり、
中之条ビエンナーレ2023も終わって2ヶ月後に作品撤収へ。
変化した作品との遭遇 撤収作業時
ドキドキしながら、会場に向かいます。
そこで「遭遇」した光景はマゼンタピンクの空間から、セピアの色の空間でした。

この「色彩が抑えられた現実のもの」がとても好きなことが改めてわかる瞬間でした。
会期中の作品では、マゼンタピンクの照明を当てていました。
マゼンタピンクに染まった植物は「死んでいるようで生きている」、「生きているのだけれど、死んでいる」ようなニュアンスを漂わせていると思っています。
当たり前のようにみている植物も、それぞれの葉っぱの形があり、しっかりと生きているという部分に視点がいく気がします。


色彩制限と認識
植物の色を、ピンク系の照明で染め直す。この単色にすることで、現実のものを非現実的なものに見せて、認識が揺さぶられていく。
今回、セピアの空間が気に入ったのも、現実の世界がいつもより色彩が限定されているということなのでしょう。
展示会場のガラス窓からは、森の木々が見えるのですが、それもセピア色に染まっています。下の写真は、動画からのキャプチャーなので画質がアレですが、とても好きな風景でした。

この認識が揺さぶられる体験は、神戸の下町芸術祭でも「おっ」と感じることがあり、その時の気持ちも以前のnoteに覚書をしておきました。
この自分が繰り返し反応してしまう「この感じ」を引き続き、探っていきたいと思います。
結局、「この感じ」とは何かには答えらませんがいくつかの要素や例えをすることができたかなと思います!
中之条ビエンナーレ2023
菅山寺
シャガの花