柴又帝釈天
柴又(しばまた)の駅から徒歩5分ほどで二天門に達する。柴又帝釈天(たいしゃくてん)。ここはもともとは題経寺という日蓮宗のお寺として寛永6年1629年に開創された。やがて日敬上人(にっきょうしょうにん)の代になって、本堂を修理していたときに、日蓮上人親刻とされる板本尊がみつかった(片面の中央には「南無妙法蓮華経」とお題目が、もう片面には帝釈天が彫刻されている)。ときに安永八年1779年の庚申(かのえさる こうしん)の日であった。時ならず、おりしも天明の飢饉(天明2年1782年ー天明8年1788年)が生じ、日敬上人は板本尊を背負って、市中まで出向いて飢饉や疫病に苦しむ人々に帝釈天を拝ませ安寧と治癒を願った(出開帳を行った)と伝わる。
そして当時の庚申信仰とむすびつくことで、帝釈天(のある題経寺)は庚申の日の夜、江戸の人々が徒歩で訪れる場所になった(宵庚申)。
参道を抜けて最初に見えるのが、二天門。これは明治29年1896年の竣工である。その次に見える帝釈堂は大正4年1915年から昭和4年1929年にかけて建てられたもの。左手の大鐘楼堂に至っては昭和35年竣工とされる。つまり、帝釈天の建物は古く見えるが江戸時代のものではなく、明治以降に営々と整備されたものである。
背景にあるのは、徒歩で半日かかる、東京との距離が明治以降次第に改善されたことである。現在は京成金町線で柴又で降りるとすぐに行き着くが、この形になったのは大正元年1912年のこと。参道の商店街が形成されたのも同年のこと。このときまでこの地は東京方面からのアクセスは良くはなかった。とはいえ明治以降、漸次、鉄道が整備されて、アクセスも次第に良くなり、それに合わせて、帝釈天も次第に整備されて今日に至った。整備の途中には大正12年1923年の関東大震災という大きな事件もあった。その意味でこの地の現在の風景は、大正期以降の比較的新しいもので、かつ人々が意識して作ってきたものではないか。
他の人と同じことを指摘するのは面はゆいが、柴又帝釈天で見るべきものは二つ。一つは建造物を覆っている彫刻群である。とくに帝釈堂の外壁を埋めつくす彫刻群は見事である。彫刻は、仏教の説話に基づいているとのことで一枚ずつ彫刻の意味や巧拙を論じたいところだが、さすがに素人の私の手に余る。彫刻は加藤寅之助など10名の彫刻家により、大正末から昭和9年までの長い年月をかけてつくられた偉業である。そして本堂、大客殿を擁する邃渓(すいけい)園と呼ばれる庭園。こちらは、永井楽山という庭師が心血を注いだものとされる。
幸田露伴(慶応3年1867年-昭和22年1947年)の「少年時代」(明治33年1900年発表)と題した文章に、露伴が幼年の時、したがって明治の初めに、東京市中から祖母に連れられて帝釈天に詣でる件(くだり)がある。
「観行院様(注 露伴の祖母)は非常に厳格で、非常に規則立った、非常に潔癖な、義務は必ず果すというような方でしたから、種善院様(注 露伴の祖父)其他の墓参等は毫も御怠りなさること無く、また仏法を御信心でしたから、開帳などある時は御出かけになり、柴又の帝釈あたりなどへも折々御出かけになる。其時に自分は連れて往って頂く、これはまあ折々の一つの楽みであったのです。」
夏目漱石(慶応3年1867年ー大正5年1916年)は「彼岸過迄」という連載小説で帝釈天を取り上げている。この小説の連載は大正元年1912年1月1日から4月29日まで。つまり京成金町線ができ、おそらくそれが話題になった年である。漱石がそうした時の話題を素材に組み込んで、帝釈天を取り上げたことが想像される。それは小石川傳通院を漱石が「それから」「こころ」といった連載小説で取り上げた時と、同じである。
須永の話 二 「この日彼らは両国から汽車に乗って鴻の台の下まで行って降りた。それから美くしい広い河に沿って土堤の上をのそのそ歩いた。敬太郎は久しぶりに晴々した好い気分になって、水だの岡だの帆かけ船だのを見廻した。須永も景色だけは誉めたが、まだこんな吹き晴らしの土堤などを歩く季節じゃないと云って、寒いのに伴れ出した敬太郎を恨んだ。早く歩けば暖かくなると主張した敬太郎はさっさと歩き始めた。須永は呆れたような顔をしてついて来た。二人は柴又の帝釈天の傍まで来て、川甚という家に這入って飯を食った。」
須永の話 十三「柴又の帝釈天の境内に来た時、彼らは平凡な堂宇を、義理に拝まされたような顔をしてすぐ門を出た。そうして二人共公共汽車を利用してすぐ東京に帰ろうという気を起した。停車場へ来ると間怠るこい田舎汽車の発車時間にはまだだいぶ間があった。」
野村喜舟(明治19年1886年ー昭和58年1983年)の俳句に以下があります。情景がよくわかります。
庚申の日の柴又の桜かな
また、水原秋櫻子(明治25年1892年ー昭和56年1981年)の俳句に以下があるが、往時の参道の賑わいが良く伝わる。
草餅や帝釈天へ茶屋櫛比(しっぴ)
第一句集「葛飾」昭和5年1930年より
櫛比:櫛(くし)の歯のように隙間なく並んでいること
石田波郷(大正2年1913年-昭和44年1969年)は、昭和32年1957年に柴又帝釈天前で次の句を作った。
草餅やをぐらき方の春火桶
アクセス 京成高砂経由金町線柴又より商店街を抜けて徒歩5分。