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ニコライ堂について

 いわゆる「ニコライ堂」(Nikolai-do :Holy Resurrection Cathedral)である。ニコライとは正教会布教のため文久元年1861年に来日したニコライ・カサートキン(1836-1912)のこと。「ニコライ堂」はその発願が実り明治24年1891年に竣工。日本で最大のビザンチン様式(Byzantine style)の建築として知られる(よく指摘される概数によれば、高さ35m  ドームの直径15m  面積805㎡ )。大正12年1923年の関東大震災で被災するも、昭和2年1927年-昭和4年1929年に岡田信一郎らにより修復再建された(昭和4年1929年 施工清水建設)。第二次大戦による戦災を免れ昭和37年1962年に国の重要文化財(important cultural property)の指定を受けた。なお平成12年2000年に鹿島建設が修復工事を行っている。

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 夏目漱石(慶應3年1867年-大正3年1916年)は小説「それから」(明治42年1909年)において、ニコライ堂での復活祭の様子を詳細に描写している。
「代助は面白さうに、二三日前に自分の観に行ったニコライの復活祭の話をした。御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寝鎮まる頃を見計って始る。参詣人が長い廊下を廻って本堂を帰って来ると、何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に度いている。法衣を着た坊主が行列をして向ふを通るときに、黒い影が無地の壁へ非常に大きく映る。-平岡は、頬杖を突いて、眼鏡の奥の二重瞼を赤くしながら聞いてゐた。」(「それから」二の三冒頭)
 與謝野鐵幹(明治6年1873年-昭和10年1935年)與謝野晶子(明治11年1878-昭和17年1942年)は漱石の「それから」が発表された明治42年1909年に、ニコライ堂の近くに移り住んでいる。その歌からは日常の風景の中にニコライ堂があることを楽しんだ様子がうかがえる(なお以下のうちで鐵幹の第二句「小石川原町の火事」の句であるが、小石川原町は現在の東洋大学のあたり。とすると夜だとしても、小石川原町の火事がNIKORAI寺のしら壁を照らすというのは、本当だろうか。現在は高層の建物があり考えにくい。直線距離で2.5km程離れている。しかし当時は高層の建物はなく、NIKORAIから小石川原町は一望できたかもしれない。いずれにせよ、かなり遠方の火事がしら壁を照らしたと記録しているのである。)。
 まず晶子から4首。
戸あくればニコライの壁わが閨(ねや)に白く入りくる朝ぼらけかな(春泥集より 『与謝野晶子歌集岩波文庫1985年改版p.50)
隣り住む南蛮寺の鐘の音に涙のおつる春の夕暮れ
ニコライの高き塔より鳴る鐘の広がる屋根に白き雨降る
わが住むは醜き都雨ふればニコライの塔泥に泳げり
 鐵幹からも4首。
岩崎の木立を出でてNIKORAIの 壁にただよふORCHESTRAかな
小石川原町の火事をかしくも NIKORAI寺のしら壁に照る
その男NIKORAI堂のうしろてに 暫く住みて行方知らずも
灰色の空に黙(もだ)せるNIKORAIの 黒き円(まろ)屋根われも黙せる
 晶子には大正12年1923年の大震災直後、ニコライ堂被災の様子を詠んだと思える句もある(以下の三句は瑠璃光より 『与謝野晶子歌集』岩波文庫1985年改版pp.191,192,197)。
ニコライの四壁(しへき)の上の大空を雲ぞ流るる覗きに寄れば
ニコライの塔のかけらにわれ倚りて見る東京の焦土(やけつち)の色
ニコライも既に廃墟となりぬれば鐘おとづれず病院町に
  斎藤茂吉(明治15年1882年-昭和28年1953年)は大正2年1913年2月、巣鴨病院を早退して、ニコライ堂を訪ねて次の歌を詠んでいる(大正2年1913年10月に出版された第一歌集『赤光』に収められた「きさらぎの日」と題された連作の一つ)。このとき茂吉が見たのは、震災前のニコライ堂である。
きさらぎの天(あめ)のひかりに飛行船ニコライでらのうへを走れり
 以下も茂吉の歌である(『赤光』より 折に触れ 明治38年1905年作 『斎藤茂吉歌集』岩波文庫1978年改版p.28)。
入りかかる日の赤きころニコライの側(そば)の坂を下(お)りて来にけり
 北原白秋(明治18年1885年-昭和17年1942年)は、昭和12年1937年、糖尿病による眼底出血のため、お茶の水にある杏雲会病院に入院。クリスマスイヴを病院で過ごした。そのとき以下の歌を詠んだ。このとき白秋は病室にあって、昭和4年1929年に修復されたニコライ堂を思ったに違いない(『黒檜』昭和15年1940年刊行より 『北原白秋歌集』岩波文庫1999年p.263)。「降誕祭前夜」と題して二首
 ニコライ堂円頂閣(ドオム)青さび雲低しこの重圧は夜にか持ち越す
 ニコライ堂この夜(よ)揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり
 
 第二次大戦後、石田波郷(大正2年1913年ー昭和44年1969年)は昭和23年1948年に出した句集『雨覆』の中で「戦終りければ」と題して詠んだ(『現代俳句の世界7 石田波郷集』朝日文庫昭和59年1984年p.60)。
 ニコライの鐘の愉しき落葉かな
 それから3年。ニコライの鐘は全国的に注目された。門田ゆたか(明治40年1907年-昭和40年1975年)作詞、古関裕而(明治42年1909年―平成元年1989年)作曲で藤山一郎(明治44年1911年ー平成5年1993年)が歌った「ニコライの鐘」の発表である(昭和26年1951年12月)
 一 青い空さえ 小さな谷間
   日暮はこぼれる 涙の夕陽
   姿変れど 変らぬ夢を
   今日も歌うか 都の空に
   あゝニコライの鐘が鳴る
 二 きのう花咲き 今日散る落ち葉
   川面に映して 流れる月日
   思い出しても かえらぬ人の
   胸もゆするか 雁(かり)啼く空に
   あゝニコライの鐘が鳴る

 アクセス:JR御茶ノ水駅東口出口でて正面方向 坂を下がりすぐ右手


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福光 寛  中国経済思想摘記
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