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映画感想#3【JOKER フォリ・ア・ドゥ】賛否両論、なるほど。偶像と虚構の脳内エンターテイメント。

この映画、公開されるや、賛否両論。というか、否の意見が多いかな。
かなり、ハードルを下げまくって、鑑賞しました。
感想は、「なるほど、そう来ましたか。でも、この流れもひとつの答えで、僕は良かった」
今回、後半ネタばれがありますので、未鑑賞の方はご注意ください。


何故、賛否両論なのか。

何故、賛否両論なのか。
ずはり、前作【JOKER】のカタルシスを、殆ど否定しているからです。
そりゃ、前作への想いが強いヒトほど、否定になりますよね。
【JOKER】は、売れない孤独でやさしいコメディアン アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)が、親や社会との断絶に、自分のなかの衝動を、JOKERという虚構の姿を借りて、社会の権威を殺す。社会に見捨てられた人々のヒーロー=偶像になるストーリー。

前作は2019年の公開。
映画は、今までにないDC映画と話題になり、主演のホアキン・フェニックスは、アカデミー主演男優賞を獲得。作品は、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得。素晴らしい評価を得ます。
興行的にも大ヒット。近年のDC映画では最も成功した作品です。

何故、これほど前作は受け入れらたのか。
2019年。米国ではトランプ政権の3年目。米国における社会的分断は、デフォルトとなります。
米国を支えていた、大量生産モデルの工場労働が無くなることで、中産階級が失われ、金融資産を持つものが富み、持たざるものが貧困化する。
日本でも若者の貧困化が、社会的にも取り上げだされてきました。

監督トッド・フィリップスは、今までのジョーカー像と異なる、”社会に打ち捨てられた男の暴力衝動”という新しい意味づけをしたコトが、この社会背景とシンクロしてカタルシスをもたらした。結果、これほどの成功に結び付いたと思います。

本作を鑑賞しよう!という多くのヒトは、この前作の”意味”の連続性を、楽しみにしていました。
しかし、トッド・フィリップスたち作り手は、同じコトの繰り返しを拒絶します。
結果、期待を裏切るコトとなり、否定の声が多く上がりました。

どんな作品なのか?

では、本作はどんな作品になったのか。
僕は、”主人公アーサーが、祭り上がられた偶像と虚構の世界に、終止符を打ち、自分に回帰する物語” だと捉えています。

この”偶像と虚構の世界”が前作【JOKER】のラストシーケンスになり、この流れが大きな社会的共感を生んだと思います。
エンターテイメントの大物司会者=マレーを、銃で撃ち殺す。
この挙動により、街でピエロ姿のフォロワーが暴動を起こす中、アーサーはアーカイム精神病院に収容されるラスト。

本作では、アーサーはアーカイム精神病院に収容され、前作で犯した殺人罪の裁判を待つ身として、物語はスタートします。

ここからネタばれです。

アーサーは、病院の中の歌唱サークルで、リー・クインゼル(レディ・ガガ)と運命的に出会います。
彼女は、ジョーカーの崇拝者。アーサーの事件は再現ドラマとして放映されており、彼女は20回も視聴し、自分の出自がアーサーと同じ地区で育ち、父親を亡くし、母親から精神病院に入れられている境遇をアーサーに語ります。

アーサーは、恋におち、彼の脳内で虚構のエンターテイメントが繰り広げられます。リーとの歌とダンスによる交歓。
この脳内エンターテイメントが、この映画のひとつの核となっています。
ホテルの屋上で、テレビスタジオで、教会で、ステージで、様々な”虚構の舞台”で、アーサーとリーの虚構のエンターテイメントが繰り広げられます。

この演出を、どのように感じるかで、鑑賞者の映画の評価は分かれていると思います。
僕は、面白かった。
まず、流石 ガガ様です。その存在感と歌が素晴らしい。
オールドスタイルの楽曲を見事に歌います。
そして、ホアキン・フェニックスが上手い。
というか、カッコいい。僕はどちらと言えば、ホアキンに魅せられました。
まず、ジョーカーの姿のホアキンのスタイルが恐ろしく良いのです。
スーツだから、その足の長さが際立つ。
そして、そのダンスがロックスターです。エモい。

物語は、アーサーの脳内エンターテイメントと、法廷劇を交互に織り交ぜて進みます。
物語のクライマックスは、アーサーが弁護士を解雇し、自らがジョーカーに扮して、自己を弁護する展開となります。
元同僚で小人症のゲイリーが証言台に座り、彼への恐怖を語ります。
前作で、アーサーだけが、彼にやさしかった。
しかし、ジョーカーとして暴力を目撃した彼は、恐怖に取りつかれている苦悩を、ジョーカーに扮するアーサーにぶつけます。
この時、アーサーはうろたえ、動揺します。自分の暴力の意味を悟る。
そして、最終弁論。
アーサーは、テレビ放映のカメラを見つめ、ジョーカーであることの限界を語ります。自分はだれか?アーサーだ。ジョーカーはいない。

アーサーは、脳内エンターテイメントの偶像を、自ら終わらせます。
この後、ジョーカー信者によると思われる、法廷爆破があり、アーサーは法廷から逃走し、”あの”階段へとひた走る。
そこには、リーが、ハーレークィンの姿で待っている。
アーサーは、リーに一緒に生きようと願いますが、リーは拒絶します。
リーが愛したのは、アーサーでなく、ジョーカーという偶像だった。
この時、リーが歌うのが、”ザッツ・エンターテイメント”。
これがとても確信的です。アーサーは、”もう歌わないでくれ”と懇願する。
リーは、エンターテイメントの虚構を生きる。そして彼女はアーサーに別れを告げて階段を上ります。
自分に回帰したアーサーは取り残されます。
この演出が悲しい。

この映画は、エンターテイメントという虚構を、ジョーカーというキャラクターで表しています。ロックスター、映画スターのように。
全ては虚構で偶像です。
その虚構を、皆が信じたい。つらい現実を逃避したい。
アーサーも、そう在りたいと思っていた。
しかし、本当の自分との乖離が生まれ、埋めることが出来ず、自分に回帰する。

自分に回帰したアーサーは、アーカイムに収監されています。
面会で呼び出される途上、同じく収監されていた、無名の若者から声をかけられます。”ジョークを聞いてくれ”。
この時のアーサーの笑顔があきらかに今まで違う。とても素直な笑顔で、若者に応える。
そして、若者は、ジョーカーを辞めたコトへの絶望とともに、アーサーの腹を何度も刺します。この展開は衝撃的でした。
絶命するアーサーの後ろで、若者は刺したナイフを自分の顔にあて、何かを切り裂く。映像はぼやけるのですが、多分”口”を切り裂いた。
そう、この若者がジョーカーを引き継いだ。

偶像は消えない。その虚構は信じるものがいる限り続いていく。

アーサーは絶命します。
その時の脳裏には、映画の中盤の脳内エンターテイメントで、リーとテレビスタジオで歌ったときに、リーが銃で腹を撃ったシーケンスへと繋がります。その続きがココで回収される。
その後、何故?子供が欲しかったと、ヒトとしての普通な幸せが欲しかったと訴えて、ジョーカーも絶命する。
アーサーの本音の叫びが、なんとも悲しい。

映画のまとめ

僕は、この映画、ホアキン・フェニックスの演技に、圧倒されました。
ホアキン・フェニックスの、純粋で目力が強い瞳。そしてあの仰け反りながら、タバコをふかす所作。歌唱・ダンスシーンでは、タップを見事にこなし、味のある歌声。魅せられました。
そして、ジョーカーであることによる、次の瞬間に暴力がありそうな雰囲気が、怖い。こんな怖さは、若かりし時のロバートデニーロのようだ。
そして、トッド・フィリップスのキレのある映像。
何気ない、ゴッサムシティの俯瞰ショット、冒頭の収監房の部屋が徐々に照明が消えていき、暗闇にマッチの火が点くシーケンス。アーサーとリーとのタバコの煙のキス。思い出すだけで、痺れる絵。
また、観たいなー。

しかし、手放しで傑作とは言えませんでした。
僕は、脳内エンターテイメントは楽しめたのですが、少々ダレます。
尺が長い。オーソドックスな楽曲と演奏のため、既視感があり、演出的な驚きは少ない。見応えはあるのですが、ダレる。
ドラマパートとのバランスをとれば、より評価が高くなったのではと思います。

ただ、あまりに酷評すぎる気がします。
この映画、数年経った時に、カルト的人気が出るのではと思っています。
暴力とロマンスとミュージカルが渾然一体となった、作品は稀有ではないでしょうか。
強くお勧めはできないのですが、映画館に観るに値する映画であると思います。

ここまでお付き合い頂きまして、ありがとうございます。
共感いただけた方は、またのお越しをお待ちしております。

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