話すことより聞くことの方が難しい
話すことと聞くこと。どちらが難しいか。
かつては話すことの方が断然難しいと考えていた。聞く方が簡単だとも感じていた。話す内容は相手に伝えることや伝えたいことであり、何をどの様に伝えるのか、どう表現すれば相手に伝わるのか。話す方のスキルにかかっていると考えていた。
これに対し、聞くことは相手が伝えようとする内容を受け取る受動的な立場で聞く姿勢があればそれで良いという単純なとらえ方だった。そう、かつては。
言い換えれば、
話す = 能動的、
聞く = 受動的、
という単純な図式で捉えていた。
話すことの方が能動的で相手に働きかける行動なので聞くことより難しいと捉えていたとも言える。
歳を取るに連れ果たしてそうかなと、特に50代後半になってかつての考えに疑問が湧いてきた。他人とのコミュニケーションで相手の言葉を受け止めるこちら側の多様性に気付いたからだ。特に、歳を取ることで予断を持って相手の話を聞いてしまう姿勢が気付かぬうちに謂わば無意識にあり、それが年齢を重ねるごとに顕著になっているのではと気付き始めている。人は目の前の他人の行動や思考、感情を自分のそれと照らし合わせる。自分に当てはめて考えたり思ったりする。人生経験を積んだ、あるいは積んだと自負する年配の歳になると尚更その傾向は強くなる。意識してもしなくても。いや、むしろ無意識にそうなるとその傾向が顕著になるのかも。しかし、話す相手の積み重ねた年数と経験が歳を取った自分の数分の一であってもその少ない経験は全く同じものではない。同じ様なものであったり似通ったりしても決して同じではない。加うるに、人は見たいものだけを見る。見たくないものは無意識に目をつぶる。無意識だから見ていても見えていないことに気付くことさえない。話す相手が見て欲しいものや見て欲しいことがあってもそこに目を向けずにいると本当に聞いたことにはならない。聞いたつもりが全く聞いていないことになりかねない。そんなことを思い巡らせると聞くことって本当に難しいなとつくづく思う。
人の話を聞く。聴く。その際聞く側の姿勢が問われている。歳を取るほど予断を持って決めつけたり偏見を持ってしまう傾向が強くなる。なので出来るだけ自分の(偏った)感情を交えず早合点せずゆっくりじっくり相手の話を聞く姿勢を持ちたい。歳を取ることは素晴らしいとは思うものの穂が垂れる様にどこか謙虚さを忘れずにいたい。