宗教の事件 50 西尾幹二「現代について」
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では、なぜああいうものが突如として現れたのでしょうか。われわれ近代人は自由という概念を尊重しています。自由の反対にあるのは従来は不自由、抑圧です。自由体抑圧という構造が明確に対立している社会を硬構造秩序といいます。それに比べて、いま私たちの生きている先進工業社会は、とくに日本はそうですが、柔構造社会です。自由はどんどん拡大していき、抑圧のラインはどんどん後ろへ退いていきます。こういう社会では、多少の違反を犯しても、抑圧されることがない。社会の逆鱗に触れるということがない。よかれあしかれそういう社会を私たちは作り上げてきました。
しかし、これは矛盾を孕んでいます。なぜならば、こういう社会のなかでは心が不安定になります。だから、自分で自分を囲い込む閉鎖状況を人工的に作り上げ、むしろ好んでそうした秩序の中に潜り込み、厳しい硬構造をあえて作る。一切の違反の許されない組織にもぐり込むことにより、はじめて心が安定する。
だれでもそういう不安を持っていますが、青年はとくにそういうものに敏感です。つまり、不自由への欲求といっていいかもしれない。抑圧されたがっていると言ってもいいでしょう。一口にいえば自閉衝動です。
私は教師をしていますのでその変化がよくわかります。大学紛争のあった時期は、教室に入ると必ず一人や二人は敵意を持って教師をにらみつける学生がいたものです。現在では、学生はみんなおとなしくなって、にらみつけてくるような学生は一人もいなくなりました。しかし、大学から駅まで行く途中で自分の教えている学生に出会っても、彼らは会釈もしない。礼儀を知らないわけではありません。彼らは完全に自分の殻に閉じこもっていて、教師に関心がないのです。教師をにらみつけていた時代は、教師の言うことに関心を持っていてくれたわけですが、今は彼らは教師を“教える機械”と思っています。人間ではないのです。自分の関係のない他者には全く興味がないのです。
なぜそうなるのか。それは社会に枠がない。自由がありすぎるからです。だから、自分で自分の周りに小さい枠を作ってその中に入ってしまわないと安定しない。今の社会は、大きな社会の外枠にぶつかってもどこからも道徳的非難の声が上がってこない。声を上げても社会は応答しない。そうであるならば、あえて承知で違反をしてみる。抑圧を自分で招き寄せるまで悪いことをしてみる。それでも社会の仕切りにぶつからない。そういう社会ですから、自分からその仕切りを引き寄せようとする。敵のない状態のなかで敵を見付けていく、自ら敵を作り出して攻撃を仕かけるというようなナンセンスな破壊衝動がだんだん大きくなってくる。だから、考えられる限り過激で、人を驚かせる手段に訴えずにはいられなくなってくる。さもないと仕切りにぶつかることができない。
つまり、自ら人工的なフィクションで作られた自閉の中に閉じこもろうとする自閉衝動、そしてもうひとつ、果てしなく過激にやらなければ壁にぶつからない破壊衝動、この二つを同時に満たしてくれたものこそ、まさにオウム真理教でした。ですから、オウム真理教の問題が終わっても、そういう人間の心の状態は消えませんから、まだ第二、第三の類似のことが起こる可能性は十分あります。そのときに大きな役割を果たすのは宗教です。オウム真理教は宗教であり、かつ犯罪でした。宗教がある段階から犯罪になったのではありません。最初から犯罪であり、最後まで宗教です。れっきとした宗教であり、かつ犯罪集団なんです。
そう考えない不徹底さが、マスコミの考え方を混乱させてきました。すなわち、宗教ならばあんなことはしないと考える。宗教は常に然と道徳を代表する者だと思い込んでいるのです。しかし、宗教が非道徳を代表しても、驚くことは何もありません。
あえて言わせていただければ、一般に宗教というものは、たとえ歴史のあるどんな成熟した宗教であろうとも、その原理からいって理性の反対側から、あるいは日常性の反対側からスタートします。毎日の生活についてこんなことでいいのだろうかという日常の活動に疑問を持つことから始まるわけです。ですから、近代的な市民社会の秩序とは原理的にあい容れないものです。宗教と近代社会は、必然的に不整合な面を持っていると考えるべきです。不整合だからといってトラブルがつねにあるという意味ではありません。しかし、決して整合しあうものではありません。
もう一つは、宗教というのは基本的に非寛容なものです。原理からいって非寛容なものです。オウム真理教は反国家で、反家族でしたが、宗教は元来そういうものなのです。昔からそうなのです。かの有名な聖アウグスチヌスすらも、正しい信仰を持たせるためには強制もまたやむをえないと言っています。宗教にはそういう非寛容な側面があることを忘れてはいけません。
オウムをめぐる今回のテレビ報道では、マインドコントロールという言葉をやけにはやらせました。これは簡単にいえば洗脳ということです。ただ、普通の意味での洗脳ではなく、特殊な概念として使われているようですが、どうやらこの言葉が言われすぎて、われわれはいま危険な状態に陥っているような気がします。すなわち偏差値エリートの幹部たちが罪を犯した。あたかも麻原にマインドコントロールされ、幹部たちには自由意志はなく、悪いのは麻原一人であるといわんばかりの報道です。
しかし、果たしてそうでしょうか。彼ら幹部たちにはマインドコントロールされたことの責任、人格的責任があるはずです。さらにいえば、末端の信者たちにも、刑事責任はなくても、道徳的責任はあるはずです。テレビは、末端の信者たちは教団の犠牲者でかわいそうだというような言い方をしています。しかし、彼らの人格を考えたとき、かわいそうだということが人格を尊重することではなくて、その責任を問い、道徳を詰問することも人格を尊重することではないでしょうか。
では、末端の信者たちと幹部クラスの人たちは、どこで線を引けるのか、必ずグレーゾーンに属する人がいるはずです。その人たちには罪はあるのかないのか。麻原が幹部たちにマインドコントロールをかけている。そうすると、実際に犯罪を犯した彼らもまた人格はなかった、責任が不在であるということになる。これは無罪論に通じます。さすが麻原無罪論は出ていませんが、麻原一人を類例のない極悪人のように扱うテレビ、新聞などのマンガチックな扱い方は、はなはだ危険です。これはオウム真理教の減刑論に傾いてしまいます。
末端の信者にも、刑事責任はないけれども道義的責任はあるという見地をとることが、同種事件の再発防止のためきわめて重要な条件になります。この最重要の責任所在論を論じる人がいない。麻原一人が悪人なのか。幹部はどうなのか。幹部と末端の間にグレーゾーンがあるのではないか。非常にむずかしい問題がそこで発生しますが、そういう意味で、われわれは次に新しい判定の時代を迎える。これを普通の刑事告発でやれるかどうかというむずかしい問題が出てくるだろうと思います。
(つづく)
西尾幹二 「現代について」(徳間書店)
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